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Speaker 2
二番経営、No.2の悲喜こもごも。
この番組では、なかなか表に出ない会社の二番、No.2をテーマに、
トップのビジョンの実現の仕方や、この仕事の面白さ、大変さなど、
No.2の悲喜こもごも、リスナーの皆さんにお届けします。
Speaker 1
こんにちは、株式会社オーツー・パートナーズ 取締役の勝宮誠です。
Speaker 2
県庁舎新しい経済編集長の、しだれゆうすけです。
二番経営、第27回始まります。
今回のテーマは、前回に引き続き、
世界のソニーを作った盛田卿に見るナンバーツー論の第7回目となります。
Speaker 1
はい。前回はですね、ソニーの二番目のデポックメイキングの製品ということで、
トランジスタラジオの開発、それから米国での展開ということをお話ししました。
その中で、アメリカでですね、ブローバー社というところから持ちかけられたんですけれども、
その会社のブランドを張るぐらいだったらお断りしますというふうに、
言い切った盛田さんのかっこいいところが出てきたというところなんですけれども、
ではその続きになります。
アメリカからですね、日本に帰ってくるんですけれども、
やっぱりブランドっていうものが大事だなということを考えてですね、
その時にアメリカで東京通信工業っていうのは、
ちょっと言いにくいし、ブランドとしても弱いなということで、
覚えやすい名前が必要だろうということで考え始めます。
東京通信工業、訳して東通工。
アルファベットでTTKとか色々考えたらしいんですけれども、
ずっとなかなか決定だが決まらないと。
その時にですね、ラテン語で音、
トランジスタラジオもテープレコーダーも音を扱ってますので、
その音っていうのはソナス、S-O-N-U-Sというのがラテン語で音だそうです。
その時にですね、その時代、1950年代にですね、
ソニーボーイっていう言葉が流行ってたらしいんですよ。
ソニーボーイのS-O-Nが2つのソニーで、
ソニーボーイ、かわいい坊やっていう意味だったらしいんですけれども、
なので、音、ソナスを扱うかわいい坊や、
ソニーボーイっていうところでソニーというふうに命名されたそうです。
全くの造語でこの四字を作られたと。
Speaker 2
すごい。だからその全社名は全然もう最終的には引きつかなかったってことですかね。
残してないですもんね。
Speaker 1
そうですね。東京通信工業どこも入ってないんですよね。
その時にソニー、カタカナでソニー、S-O-N-Iで
四文字、新しく新社名を決めましたと。
決めましたって言ったんですけども、
そんな何かソニーって出てくるかねって思うぐらい
何か上手い言葉だと思います。
当時はもちろんそんなカタカナの社名とか何やってるか分かんないし、
それを何か選んだのは何か今でこそ当たり前になってますけども、
Speaker 1
ちょっと何かもう信じられない命名センスっていう感じ。
Speaker 2
でもやっぱりグローバル意識っていうのがあるんですよね、ここにもね。
そこが強かったんでしょうね。
Speaker 1
だから何とか工業とか通信とか電気とかそういう言葉が入らなかったとしても
いいんだっていう、それよりもブランドだっていうことが
何かあったんじゃないかなというふうに思いますね。
で、そのラジオのどのどの小型化をしていって、
1957年には世界最初のポケットダブルラジオっていうのも作ってですね、
そこにはソニーマークが入っています。
ちなみにこの世界最初のポケットダブルラジオっていうのは、
Yシャツの胸ポケットにも入れられるっていう触れ込みで作ったんですけども、
残念ながら微妙にYシャツの胸ポケットに入らなかったみたいなので、
当時そのラジオが入るYシャツを大量にですね専用で発注してですね、
セレスマンはみんなそのYシャツを着てほらポケットに入るでしょってやってたみたいですね。
Speaker 2
いいですね、なるほどなるほど。
Speaker 1
こんなところでなんかそのセコさなのかマーケティングなのかわからないですけども、
やられてたみたいです。
新社名で小型ラジオっていうことで、
その新商標のソニーっていうのが羽田空港にドーンと出てですね、
かつ日本の最大の繁華街の一つである銀座の隙あばしの交差点のところですね、
そこにもソニーの看板をボーンと出すということをされます。
この新社名っていうのができてですね、
それからしばらくしてすぐに1958年、昭和33年なんですけど、
1月にソニー株式会社というふうにこの新社名が変わるんですけども、
その年の12月に東京証券取引所に上場することになります。
創業して12年経ってるところですね。
当初に上場して明日ともにトップ企業となられました。
その翌年、1959年、森田京さんは38歳で、
ここでようやくって感じかもしれないですけども、
ソニーの代表取締役副社長に就任されます。
それまではセムさんだったんですね、ずっと。
ナンバー2と言いながらも。
トップはずっといぶかまさるさんなんですけども、
初代の前田多聞さんが社長やられてましたけれども、
最初の数年でですね、いぶかさんに社長はお譲りになられていらっしゃいました。
1959年に森田さんが副社長になっているところなんですけども、
そこからですね、そのブランドっていうところで、
ソニーっていう商標社名があって、
そこからですね、そのブランドを高めるためにですね、
森田京副社長はいろんなことをやり始めました。
先ほど東京の銀座スキヤ橋にソニーの看板を出したというお話を申し上げましたけれども、
この副社長になった1959年、東京の銀座にショールームを作ります。
ラジオとテープレコーダーを売ってた会社ですけれども、
とにかく都心部の一等地にあってですね、そこではセーレスマンがいないです。
Speaker 1
で、製品が置いてあるところですね、ブランドショップですね。
そういうところって今よく見ますよね。
製品が置いてあってセーレスマンがいないところっていうのは。
その形を後々参考にしたのがアップルストアですね。
Speaker 2
なるほどね。
Speaker 1
製品をポポポポポッと置いてあるだけ。
誰も売り込まないんです。
後にアップルストアが昨後にした、とにかくショールームでブランドを高めると知ってもらうということを最初に始めたのが森田卿さんでした。
それは東京の銀座だったんですけれども、その後アメリカへの進出っていうのもどんどんどんどん本格化していきます。
現地で売っていくために代理店を活用して、ここも訴訟問題になったりですとか。
アメリカでソニーコーポレーションオブアメリカっていうのを1960年に設立して森田さんはそこの原稿の社長を務められるっていう風になったり。
その年にこのヨーロッパ、スイスにもソニーオーバーシーズSAというのを設立してここも社長をされると。
本社の副社長なんだけど海外の拠点の社長を兼務するということをされていきます。
1961年アメリカのソニーの原稿を作った翌年には日本企業として初めてアメリカでADR米国余託証券というのを発行します。
ADRっていうの私も知らなかったんですけど難しながら。
海外で資金調達をする株券ではないんですけれども、海外の市場で資金調達をするということを日本で初めてやります。
これは1961年ですね。
翌1962年にはニューヨーク5番街、世界の中心ですね。
そこにソニーのショールームっていうのを開設します。
銀座に続いてというとですね。
この頃になると日本よりもアメリカ、海外にいる時間が圧倒的に森田さんは多くてですね。
出張ベースで行ったんですけども、奥様、お子さんを連れてアメリカに実際に住むというようなこともされたりしながらというのはこの頃になります。
ソニーはですね、その後どんどん新製品というのも作っていきます。
1965年にはですね、世界初の家庭用のVTRビデオレコーダー。
音だけじゃなくて画像もですね、録音できるレコーダーを発売します。
翌1966年にはスキヤ橋にソニービルをオープン。
今多分再開発中なのかな、ですけども。
多分しらやさんもソニービルはスキヤ橋のお土産地ですよね。
門っちょにあるビルでそれを作ります。
そこがショールームになってたりとか、地下にソニープラが入ってたりとかいうのがありましてね。
その後ですね、1968年にですね、これまではずっとレコーダー、ラジオ、VTRのようなものを作っていたわけですけども、
ついにコンテンツ事業にも入っていきます。
Speaker 1
1968年、CBSソニーレコード設立ですね。
最初の頃から情報産業だということでソフトウェアの部分も意識されていたところがですね、
ようやくレコード会社っていうところまで手を届かせていきます。
1968年にはですね、もう一つそのレコード会社の立ち上げと同様にですね、すごいことをやっています。
その時にトリニトロンカラーテレビっていうのを発売するんですけれども、
トリニトロンっていうのは光の技術なんですけども、ブランカを使う技術の一つなんですけども、
このテレビでですね、アメリカでエミー賞っていう、よくなんかイケてるテレビドラマとか撮られるような賞がありますけども、
その中でこのテレビがエミー賞を受賞するというのが1973年にあるんですけども、
その受賞した製品を出したのが1968年。
トリニトロンカラーテレビっていう、でもテレビもソニーということで、世界で一番有名になりました。
今さらっとトリニトロンカラーテレビっていうふうに申し上げたんですけども、
このトリニトロンカラーテレビの前にクロマトロン方式のテレビっていうのがあってですね、
これがですね、地獄のクロマトロンなんですけど、クロマトロンって言われるぐらいですね、
ソニーでも本当に苦労して苦労して大失敗したっていう、
そういうことか。
はい、技術開発の話がありました。
で、それを経てトリニトロンカラーテレビというのが出てきます。
このクロマトロン方式のテレビの話もですね、やると多分2番系2回分ぐらいになるので、
Speaker 2
今回はちょっと苦労してっていう感じで。
Speaker 1
その後ですけども、1970年ちょっと一気に飛ぶんですけども、
1970年に日本企業で初めてニューヨーク証券取引所に上場することになります。
61年にADRで初めて海外で資金調達をして、それの9年後にはですね、そこでも上場すると。
日本企業初ですね。
日本企業初をずっと連発し続けてきたこのソニーという会社なんですけども、
ここまでずっと森田さんは副社長というポジションでやられてきています。
その翌年ですね、1971年、森田競さんがようやくですね、
ソニーの代表取締役社長に就任されます。
イブカマサルさんはですね、会長職になられて、その後1976年まで会長職を務められたということになります。
ここで2番系なので、社長トップですので、一旦ここまでという感じになるんですけれども、
ソニーの創業史っていうと、どなたもですね、やっぱりソニーといえばウォークマンということで、
ウォークマンの話も期待された方いらっしゃるかもしれません。
あるいはビデオでベータマックス対VHSの戦いもあったんじゃないかとかいろいろあると思うので、
Speaker 1
全部やりたいんですけども、もう2番系多分1年ぐらいかかるんですよね。
Speaker 2
そうですね、もうソニー経営みたいな話になっちゃうと。
はい、なっちゃうので、ちょっと今日はですね、残りの時間限りで1970年代に取り組んだことっていうのをちょっとずつだけご紹介していきたいと思います。
Speaker 1
先ほどのソニービルでソニープラっていう話をちらっと言ったんですけれども、
聞かれている方でソニープラ、ソニープラ座っていうのを知っている方がどんだけいらっしゃるか知らないんですけれども、
実はですね、1972年、森田さんが社長になって2年目ですね、アメリカの有名な雑誌タイムという雑誌がありますよね。
そこで2ページのぶち抜きで、ソニーはアメリカの各種製品、商品を日本で売りたいと考えています。
我々は日本の市場を熟知していますっていう2ページの全面広告を出してですね、
そこで皆さんが日本で売りたいものがあったらどんどん言ってくださいって言って、一気に3000件の引き合いが来てですね、
一般消費者向けの外国商品を販売する、そういうソニートレーディングコーポレーションっていうのを1972年作ってですね、
それの売る店舗がソニープラ座だったんですね。
Speaker 2
そういうスタートなんですね、ソニープラって、なるほど。
Speaker 1
これまでは日本で作ったものを世界に売るということをやりましたと。
ワーケティング広ければ広いほどっていう感じだったんですけども、
自分たちで作るものを日本で売るだけじゃなくって、こんだけ世界に出てって世界とのネットワークもできたというところで、
いやいやもう日本っていうのを僕ら一番知ってるっていうことを、いろんな海外に行ってますから一番言える立場でもあったんですよね。
なるほど。
なので今度は逆に入れるっていうことをやってみたということで、
ソニープラ座は1980年代、90年代とかはちょっとおしゃれな海外の化粧品だったりとか文房具とかを売られてるっていうところであったと思いますけども、
今はちょっとまた違う経営をされてるというか、ソニーグループから離れてですね、別の会社で運営されてますけども、今でもある輸入作家専門店ですね。
あと1975年には、先ほど家庭用のVTRを1965年に出しましたっていう話があったんですけども、その後ビデオといえばベータとVHSって話が出てくるんですけれども、
ここはですね、ベータマックスっていうテープとしては小型で、よりその画像の質も高いっていうものをですね、ソニーが開発して売って出たんですけれども、
VHSという体制の方にですね、結果負けてしまったというところであります。ここはですね、いぶかまさるさんがとにかく新しいもの、誰かの真似っていうのがとにかく嫌いだったので、やっぱりいいものを作るっていうところにこだわって、
ベータマックスというのは生まれたんですけども、残念ながらいろんな事情もあってですね、この戦いには敗れたというところで、これも本当10回分ぐらいの中身があるぐらいの大戦争ですよね。
Speaker 1
この方のソニーへの上位の仕方が普通じゃなくてですね。
今回そのソニーさんの最初の製品でテープレコーダーの話がありました。
テープレコーダーを大賀則夫さんは当時ですね、東京芸術大学の2年生だった頃にですね、学校にあったんですね、そのテープレコーダーが。
それをずっと使うとですね、ここができてない、あれができてないというクレームがどんどん出てきて、それをソニー本社にですね、送りつけてですね。
なんだこれ、こんなとこできてねえじゃねえかっていうクレームをですね、芸大の性学科の2年生がめちゃくちゃ言う。
で、本社に来て意見を述べるっていうことをやっていました。
そのクレームっていうのがですね、もういちいち適切なんです。
もうただの文句ではなくて、それも全員として改善しなくてはいけないっていうところを的確に言ってくれると。
まあそういう20歳の学生さんで、ソニーの中でですね、彼は給料がない観察官だって言われるぐらい、細かく適切な指摘をしてくれましたと。
で、芸大を、東京芸大を卒業するっていうふうになって、森田恭さんですね、大賀さんに、うちで仕事してくれと頼むんですね。
芸大出たばっかりのスプロの歌手っていう感じですね。
そしたら大賀さんは、いやいやもうこの後留学するんで無理っすって感じなんですけど、じゃあ食卓社員でいいか。
Speaker 2
なんかちょっと手伝ってくれっていうことで、その間ですね、大賀範雄さん4年間ですね、ベルリン国立芸術大学に留学するんですけれども、そこの学校に行けること自体もちょっとすごいですね。
Speaker 1
で、4年間食卓の社員をします。
で、日本に戻ってきて、日記会っていう芸術の団体があると思うんですけども、そこでプロのオペラ歌手としてデビューをされます。
それでもですね、やっぱり的確な指摘をしてくれた大賀範雄さんのキャラクターも含めてですね、森田明雄さん惚れちゃったんでしょうね。
海外で出会ってですね、ロンドンで会って、その後ニューヨークにお互い行くっていうところだったんですけども、それをですね、飛行機じゃなくて船旅にしてですね、4日間と10時間っていう記録があるんですけど。
4日間と10時間ですね、ひたすら森田さんがですね、大賀範雄さんをくどきまくるっていう、もう船の中にしか逃げる場所がない。
逃げらんないっすね。
そこでもう、とにかく説得をして、もう君が必要だ来てくれというのをもう延々言いました。
その時に、これもかっこいいなと思ったんですけど、森田さんがおっしゃるのは、日本の音楽界から彼を奪うことと、日本の録音機製造技術に彼を加えることとの交際を私は真剣に考えた。
そのアーティストとしての大賀範雄さんもものすごく評価していると。
でもそのマイナスよりも、録音の機械っていうのを世にもっといいものを出していくってことを、どっちがおそらく人類にとっていいのかぐらいの考え方じゃないですかね。
絶対うちに来た方がいいってことで、その時も留学終わってプロの活動をされていた大賀範雄さん、29歳のプロ音楽家ですね。