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Speaker 2
二番経営、No.2の悲喜こもごも。
この番組では、なかなか表に出ない会社の二番、No.2をテーマに、
トップのビジョンの実現の仕方や、この仕事の面白さ、大変さなど、
No.2の悲喜こもごもをリスナーの皆さんにお届けします。
Speaker 1
こんにちは、株式会社オーツー・パートナーズ 取締役の勝宮すいでです。
Speaker 2
源頭社新しい経済編集長の修田隆佑介です。
二番経営第32回、今回のテーマは前回に引き続き、
新選組鬼の副長・肘方歳三に見るNo.2論の第4回になっております。
Speaker 1
はい。前回は新選組がライジングする池田屋事件ですとか、
その背景にあった新選組という組織が持つですね、
いろんな内部矛盾的なことをお話申し上げました。
最後にしだらさんから、金能とか何とかって言ってるけど、
当時の天皇とか将軍とかが何を考えていたでしょうかね、
っていう話がありましたので、
その二人の考え、特に将軍サイド、徳川義信が何を考えてどうなっていったのかっていうのが、
ちょうどこの後に出てきますので、
今日はそこからお話を続けていきたいと思います。
時代は1867年という年になります。
慶応3年という年になってくるんですけども、
この年にまずあったのがですね、前回ちらっとお話した伊藤嘉太郎という一定の派閥がですね、
正式に抜けるというのがこの年の初めの頃にありました。
その後ですね、この1867年、新選組はずっとイケイケの状態だったんですけども、
その時の新選組105名がですね、これまで藍図班預かり、京都守護職預かりだったんですけども、
こっからですね、正式に幕府の家臣として取り立てられるということが起きます。
Speaker 2
直系になったみたいなことですか?
Speaker 1
直系になりました。
Speaker 2
そういうことですよね。
Speaker 1
もうまさにそうですね、大親分から直接杯をもらうという感じですね、日本統一的に。
Speaker 2
そういう感じですよね。
Speaker 1
はい、その直の杯をもらう人、幕府の直の家臣で、上の方の人たちを旗元と言いますね。
下級部士のことを後継人と言ったりしますけれども、本土の久美はその旗元として取り立てられます。
その閣なんですけども、見回り組という新選組と同じような組織をですね、幕府直轄で持っていたんですけども、
そこのよりき閣、よりきっていうのは、よくそれこそ前新潟平治とか鬼辺半河町に出てくる警察の人みたいな感じですね。
よりきと言うんですけども、300票という年間の年収がですね、田原300をもらえるという、そんな感じになります。
維持方は旗元職には慣れなかったんですけども、見回り組肝入り閣と言われるくらいだそうです。
ここはですね、田原で言うと92.5票ですね。
ちょっと中途半端なんですけども、まあそういう感じです。
いずれにしても他のメンバーもいろいろ役職を訴えられました。
ただ爆心に取り立てられたんですけど、まだ一代限りということになるので、次の時代までは維持できないと。
普通武家は家がずっと継いできますけども、そこまではないんだけれども、
それも将来的には、たとえば国本道家とかひじかた家が幕府の過信になるということもあり得るよと、
まあそういう説明を受けてということになります。
まあなのでようやく将軍第一で思ってた人たちなので、
その将軍の直接の部下になることができたということで、
非常にですね、新戦後に一度喜んでいるメンバーも多かったという感じです。
Speaker 1
メインのミッションはですね、京都の守護というところは一部継続しながらですね、
今度は幕府の要人敬語っていうのが中心になっています。
そうこうしてる間にですね、政治の世界はどんなふうになっていったのかというところなんですけども、
ここでですね、藍津藩と一緒に長州藩を追い出した薩摩藩がですね、動き始めます。
まずは薩摩藩がですね、土佐藩と同盟を結ぶんですね。
そこの同盟の内容っていうのは、まずは体制交換をさせる。
これは徳川家が政治の権力っていうのを国に返す、朝廷に返すというのが体制交換なんですけども、体制交換をする。
それから近藤たちが言っていたような公務合体、朝廷と幕府を一緒にしましょうと。
それから公務合体をすると同時に諸公会議、つまり日本中に大名がいるので、
そういった諸公を議員のようにして諸公会議の議会制度を導入しようと。
これはなんか結構いい感じなんですよね。
近藤たちが言っていた公務合体の中身って感じです。
それをですね、やると同時にですね、いわゆる薩長同盟ですね。
坂本龍馬が動いて、敵同士だった薩摩藩と長州藩を結んで、薩長同盟というのも合わせて薩摩藩は結びます。
これの内容はですね、先ほどは公務合体で体制交換って話をしてたんですけども、
巨兵をして幕府を撃つという密約です。
公務合体するって言ったところから急にもう幕府を撃ち倒すということですね。
そこでそういう密約を結んでですね、
岩倉智美という苦言の名前が聞かれたことあるかもしれないですけども、
あと大久保利三ですね、薩摩の幹部がですね、動いて薩摩と長州に討伐の密着っていうのが行われます。
天皇が命令をしてですね、幕府を倒しなさいっていう命令を出されるという、そこまで動きが進んできました。
それを察知した徳川良信、徳川幕府の方はですね、幕府を倒すっていう動きがありそうだと。
あればまず先手として動こうということで、体制交換をですね、1867年の10月にします。
つまりもう政権はお返ししますって先に言っちゃうと。
倒さなくてもいいですよ。お返ししますんで。っていうのが体制交換ですね。
体制交換をして、そこから後部合体で一緒に振り作りをしていこうというふうに考えていたのが、
そのときの徳川良信だったんですね。将軍の考えです。
朝廷と近づいていこうというふうになったんですけども、
先ほど薩長の密約でですね、拒閉して討伐しようとか、そういうことを言っていた人たちからしてみるとですね、
政権返されちゃったんで、振り上げた拳困っちゃうんですね。
なので、このままだといけないということもあってですね、
今度はですね、朝廷側として王政復興っていうのをします。
この王政復興っていうのは何かっていうと、朝廷側の空出たという言い方もあるんですけれども、宣言です。
中身はですね、徳川良信の政権返上、これも体制交換でします。それを確認します。
それから将軍職を辞めると言ってるんで、それも承認します。
江戸幕府を廃止する。
それから葬祭、議定、参与という政治の機関の役職を作って、あと改革政策っていうのを採用する、といいます。
これは後部合体で、幕府と朝廷で一緒になってやろうといったことをですね、朝廷側だけでやりますよっていうのを制限する、みたいな感じ。
将軍職をなくすっていうのと同時にですね、将軍職と松平固守がやっていた京都守護職、それから京都書士大、松平固守の弟がやっていた京都書士大っていうのが仕事としてなくなるということになります。
その廃絶っていうのを宣言したというのが王政復興ですね。
これで2回目ぐらいのときにお話しした、一橋義信の位置、合図の階、桑名の桑で一階層勢力という、後部合体を謳っていた勢力があったんですけども、この一階層全員が養殖を一緒にして失うという事態が発生します。
これでも後部合体派がなくなるっていう感じですね。
そういう大きい政治の流れが起きて、徳川幕府が消滅することが起きたという感じです。
Speaker 1
これが大きい政治の流れだったんですけども、一方新選組自体は、つい最近ですね、爆死に取り立てられてウキウキだったわけです。
そしたらその幕府がなくなるっていうのを言われる、そんな状況だったんですけども、その間にですね、冒頭で言った伊藤嘉修太郎一派っていうのが分離されたんですけども、
大政法官があった翌月にですね、伊藤派を騙してですね、これまたセリザーカムの時の同じように殲滅をします。
暗殺という感じではないかもしれないんですけども、騙し討ちをして、殺して、伊藤嘉修太郎が亡くなったので、この遺体を取りに行ってくださいというふうに伊藤一派の人たちを呼んで、遺体を取りに来た人たちをまた全員殺すというようなことを。
Speaker 2
いやいやもう、なかなかですよこれ。
Speaker 1
同じタイミングでですね、実は殺虫同盟を指揮した坂本龍馬っていうのも京都の大宮という宿で殺されます。暗殺をされます。
最初はですね、その坂本龍馬、中岡慎太郎を殺したのは新選組だっていう説があったんですけども、
Speaker 2
実はその後で幕府のつくっていた見回り組っていう組織がやったというのが今の通説に。
Speaker 1
その王政復興までやって、自分のボスたちがもう仕事なくなっちゃって、新選組も何をやったらっていうところだったんですけれども、
京都でですね、そうは言っても二条条ってお城を守るとか、そういうことをやりたいということで命令を受けたんですけども、
それを担当していた水戸藩というのが当時いたんですけども、そこでちょっといざこざがあったりとかして、
なんかちょっと仕事なくなっちゃったら困ったなとフラフラしてるところにですね、先ほど殲滅したと申し上げた伊藤派の生き残りが待ち伏せしてですね、
本堂を狙撃するということで、本堂はそこで中傷になってしまうということが事故ではあります。
なんで仕事もなくなるは、自分が撒いた種かもしれないんですけども、自分も襲われて怪我をしてしまうという状況ですね。
Speaker 2
そこから京都を出て大阪に逃げ延びるというふうになります。
Speaker 1
大阪に移って1868年という年を迎えるんですけれども、この時にですね、大阪にはですね、どんどんですね、その旧幕府軍といったほうがいいかもしれないんですけども、そういう人たちもずっといます。
王政復古があった後ですね、その幕府の人たちも大人しくしていたところなんですけども、薩摩藩主とかですね、幕府を倒そうというふうに拳を振り上げた人たちが、
辻斬りということで夜道を襲って暗殺をしたりですとか、強盗をしたりですとか、そういうことを重ねていたんですね。
そこでですね、煽ってるんですね、要は旧幕府。
なるほど。
そういうことをしていたので、旧幕府がちょっとこのままではいけないということでですね、大阪城に集まっていた旧幕府軍、それから幕府を支持する諸藩の勢力が15,000人ぐらいいたそうなんですけども、大阪城から出た。
そこからその15,000人がまず京都に行けて大阪から出発をします。
Speaker 1
要はその軍隊がガッと動いたので、新政府軍としてはですね、ちょっと幕府ずっとつついて、いろんな悪いことをしながらつついて、それを暴発させたかったんですね。
ようやくその15,000が動いてきて、今度は京都側です。
ここには新政府が待ってるんですけども、旧幕府軍15,000人に対して新政府が4,500人、3分の1しかいないところで争いが始まります。
それが族に言う戸場伏見の戦いといって、この後続く母親戦争の一番最初の戦いになってくるんですけれども、
4,500対15,000、数が3倍ですので、さすがにここは旧幕府軍行きそうな感じなんですけども、
この4,500の新しい武器を携えて、かつ薩摩とか長州の連合軍だったんですけども、
薩摩も長州も海外と戦ってるんですよね。イギリス軍と戦ったりとか。
海外の船とかと戦うという実戦経験も積んでいて、最新鋭の武器も買いまくっている、この4,500ですね。
戦って、言葉伏見で旧幕府軍は敗走することになる。
その中で新戦組というのは、近藤勲が撃たれて重傷でしたので、
肘方俊三というのが指揮をとって、愛知兵と一緒に伏見で戦うということをして。
かなり大きい戦だったんですけども、このときに近藤勲ではなくて、
肘方俊三が新戦組および愛知兵も含めて、最前線で指揮を取ることをやったというのが実は、
この後、本当に短い期間なんですけども、母親戦争を戦っていく中で、
肘方俊三が戦争の現場でどんどん才能を開花していくという、一番最初の実績になっています。
ちなみにこのときなんですけれども、旧幕府軍1番号船が巨兵をしたときに、
迎え撃つ4,500の新政府軍というのは官軍と言われています。
朝廷がついて、天皇陛下がついて、それが敵はもう全部朝敵といって朝廷の敵であるということで、
Speaker 2
かてが官軍のことでありますけれども、旧幕府軍というのがもう本当に国の敵だという扱いを受けました。
Speaker 1
その中の懸賞金じゃないんですけども、一番悪いやつ誰かランキングの第1位、徳川よしのですね、さっきの将軍。
第2位が京都守護職の松平固森。
Speaker 2
第3位が京都諸地帯の松平貞明。
Speaker 1
この3人ともビッグネームなので、それは敵方から見たら首をかけた感じで言われるだろうって感じなんですけども、
今回ですね、ちょっとなんか改めて見て年齢をちょっと調べてみますね。
このときに一番の敵だって言われた徳川よしのが31歳。
若いな。
若いですよね。松平固森も32歳。
京都諸地帯の松平貞明21歳です。
31歳、32歳。当時の感覚、今とは全然違うと思いますけども、
この年のときに一生懸命働いてきて、いきなり国の敵だって言って、全国民から狙われるみたいな。
Speaker 2
いやすごいことですよね。
Speaker 1
ちょっと吐き気止まんなくなるぐらいの状況ですよね。
まあそういう中に、後部合体派、1階層権力っていうのは完全になくなって、
かつそこに付いてた新選組というのも、これで京都での活動は終了となる。
この後母親戦争でどんどん東へ東へ、北へ北へというふうに移動してくることになります。
これで都が不死身の戦いから、母親戦争という日本の大戦が始まってくるわけですけども、
この母親戦争っていうのは、新政府対旧幕府の戦いではあるんですけども、
徳川幕府っていうのは将軍職もなくなりましたし、消滅をしたということになるんですけども、
一方で徳川家はまだあるわけですね。
そのときの徳川家の国力っていうのは400万石あります。
以前、豊臣秀長の回で100万石以上の大名ってほとんどないんですよって言った中で、
徳川の400万石っていうのはどんだけすごいかっていうのはあると思うんですけども、
諸藩大名たちを治めていたんですけども、
自分たちも徳川としていろんなところに直轄地、天領といったりもしますけども、
そういうところを持っていたので、徳川家の領地を守るっていうふうにシフトしてくるんですね。
幕府ではなくて。
その直轄領の場所はどこら辺にあるのかというと、
例えば関八州って言われるんですけども、関東甲信越のエリア。
そういったところもあります。
もちろん江戸もそうなんですけども、
そういったところを守らなくてはいけないというのがあります。
徳川義信、もう第一党の一番の悪人だっていうふうに狙われた徳川義信は、
そのとき何をやってたかっていうと、大阪から江戸に逃げ延びて、
東京の台東区に関八州というお寺が今でもあるんですけども、
その関八州、お寺の中にずっとそこで控えているという状態です。
ちなみに徳川義信は明治維新のあとも生きていくんですけども、
最後亡くなった徳川義信さんのお墓はですね、
東京台東区の柳中霊園というところにあります。
徳川義信の墓ということで、誰でも見ることができます。
ちょっと変わった墓石の形をしてるので、
ちょっと興味ある方はググっていただくと面白いと思います。
ちょっと達成しましたけれども、そこにこう控えていてですね、
実は近藤もちょっと怪我をしたというのがありましたけれども、
この関永寺にいた徳川義信を敬語するという仕事をそのときにしていました。
そこで徳川義信を守っていたんですけども、
一方で徳川家の領地を守ると、関八州を守るというところで、
そこの中心地の一つ、海、甲府のあたりを守るということをしなきゃいけないということを、
近藤勇が徳川義信に進言したという記録があります。
この海百万石だったらしいんですけども、
そこで新政府軍がずっと東に進んでいたところを、
この甲府で新政府軍を止めることができたら、
この海百万石をお前にあげるというふうに言ったとか言わないとか。
この政府がなくなるっていうそういうときにも、
近藤勇は出政を非常に果敢にもって、
純粋に徳川家を守るということだけじゃなくて、
そこで出政を遂げようということで、
その甲府に向かって、紅葉陳部隊という組織名称があるんですけども、
海のエリアですね。
海の治安維持を目的とした軍隊を蘇生して、
そこの隊長として甲府に向かう。
ここで官軍を迎え撃つということをします。
新政府軍と戦うまでにいろんなやり取りがあった。
人が足んないとか、このまま大丈夫なのかといういろんな意見があったんですけども、
新政府軍と戦い始めると、2時間で勝負はして、
急爆風雲、一方的なおてんぱんにやられて、
近藤勇は負けて、それでまた江戸に戻ってくるって感じになりました。
ボコボコにされた。
そのときにも、中山内で長倉新八という人がいるんですけども、
その人とちょっと揉めて内部分裂をしたりとか、
この後にを揉んで内部分裂するのかみたいなことが起きたりとかもするんですけども、
本当に戦としてはボロボロになって近藤勇には負けました。
そのとき、肘から突出は実はそこの戦線にはいなかった。
そうなんですけど、一時的に離れたときに負けちゃったということだったそうです。
負けて江戸に戻って、今度は既死回生を狙うということになるんですけども、
江戸に戻って、今の足立区から千葉の流れ山というところがあるんですけども、
そこで一旦軍を再編成し直すということで、
そこの流れ山に控えるということになります。
そこに近藤勇も肘方俊夫もみんな流れ山にいるという感じです。
流れ山にいるときに、近藤勇、肘方俊夫も、
新政府軍からしたら超マークする重要犯罪人という扱いになってきますので、
二人とも大久保とか内藤とかに変名を使って、
その隊を組織しようとしている。そういう流れ山でした。
Speaker 2
偽名島ですね。
Speaker 1
偽名ですね。
なんですけども流れ山で部隊を配置してる状態でしたので、
そこになんか怪しい奴らがいると新政府軍が来ちゃうんですね。
取り囲まれます。
取り囲まれて捕捕されることになるんですけども、
なんとかうまくいって、
いや実は旧幕府のものなんだけども、
歩兵が逃げちゃって、その辺で乱暴労籍をしてるみたいだから、
取り締まるために流れ山まで来てるんです、というふうに嘘をついてですね。
実は肘方俊夫はその嘘が認められて、すっとそこから逃げることができました。
武器も全部差し出します。
もう何も新政府軍に立てつかないです。武器も差し上げます。
ただ取り締まりに来ただけなんです。
そのときに内藤駿という偽名を使った肘方は逃げられたんですけども、
実はそこの対応しきっていた大久保、
これは近藤勲のことなんですけども、
ちょっと話を聞かせてくれってことで連行されてっちゃうんですね。
連行されてるときに、なんでそこにいたのか。
いやいや幕府のものなんだけど歩兵が逃げちゃって、
それを抑えるために行ったんですってことを、
肘方俊夫と同じような言い訳をしていたんです。
そのときに旧幕府の見回り組という組織があったんですけども、
その人を呼んできて、あいつは誰だと。大久保って言ってたけど。
言ったら、彼は近藤勲ですって言うふうにちくられてですね。
そこで近藤勲がばれてしまって、
新選組の局長近藤勲として捕捕されるということになります。
Speaker 1
結果的には思ってしまうんですけども、
武士として最後を自分で解けるっていうことと、
残首されるっていうのはやっぱり名誉。
全然違うものだったんですけども、
残念ながら近藤勲は武士に憧れていて、
そういう身分になって、爆死にもなったんですけども、
最後は残首ということで終わってしまったと。
3日間その首は晒されて、
アルコール付けにされて京都に送られたっていう記録があります。
ちょっと壮絶な感じではあるんですけども、
実は近藤が処刑されたタイミングではですね、
おそらく肘方勲はまだずっと江戸中を走り回ってる。
探案をするために動き回ってる状況です。
当時は今ほど情報も入らない状態でしたので、
ずっと江戸にいる間にですね、
一方で新選組の本体が150名ぐらい集めることができたんですが、
みんな合図にですね、移動するという感じになっています。
肘方勲はですね、その新選組150名っていうのはみんな合図に出るんですけど、
自分は近藤勲を助けるためにずっとこう、
球場でいろんなとおり交渉をし続けています。
必ず近藤勲に戻ってくるには違いないということで、
新選組は一応立て直しはするんですけども、
さっさと合図に送ってですね、新選組では同行しないで、
近藤がずっといるに違いないという、関東に残ってですね、
近藤勲が戻った暁にはまた一緒になって戦おうというふうに思って、
Speaker 2
一人だけずっと新選組の中に関東に残って、ずっと留まっていた。
Speaker 1
まあその処刑の話を聞いたときの事例としての記録は残っていなさそうなんですけども、
ちょっとまあ言葉にできないような状況だったんだろうなというふうに思います。
Speaker 2
いやーでもこれで結局近藤が死んでしまう。
このエピソードすごいですね。
やっぱりその武士に憧れたけど、なりきれなかったようなところもあるけど、
最後はやっぱりそれを望んだ、
切腹をさせてもらえるのか、処刑されるのかって意味が違うので、
そこの話はすごいですし、
なんか考えたんですけど、彼らが京都を守ったのに昔は。
Speaker 1
そうですよね。
Speaker 2
彼らが活躍しなかったら全然違う歴史が、京都が燃えてたかもしれなくて、
で一時はある意味スター的にこうなっていて、拡大してた立場だったのが、
こうどんどん追いやられていき、最後には名を偽って逃げるみたいな、
まあ逃げるというか潜伏するみたいになったっていうのもなんか本当に、
しかもこれが何でしょう、数年の間に起こってるっていう、
歴史の転換点でこういうことなんだなっていうのはなんか思いましたね。
Speaker 1
そうですね、本当にちょっと密度が濃い。
Speaker 2
密度濃いですよね。だって去年まで、ええみたいな話じゃないですか。
Speaker 1
いやいや本当ですよ。
Speaker 2
であとまあやっぱりここから気になるのが、
ナンバーワンがある意味不本意のいなくなってしまった後の、
肘肩がどうなっていくのかっていうのをちょっとお伺いしたんですけど、
そろそろお時間なので、次回にいろいろまた解説いただければと思います。