1. 二番経営 〜組織を支えるNo.2の悲喜こもごも〜
  2. #24 最強バディ、ソニー創業者..
2024-08-14 31:35

#24 最強バディ、ソニー創業者・井深大の前半生とは?盛田昭夫論④

▼今回のトーク内容: 

ソニー創業者・井深大/井深家のルーツは会津藩/先祖は白虎隊/明治維新で家は役人に/1808年、井深大誕生/父が若くして死去/母と上京/母子家庭/上野博物館によく連れていかれる/機械いじりが好きな子に/母が再婚/大学は早稲田大学・理工学部に進学/就活/東芝に落ちるも写真科学研究所に入所/映画業を営む日活の下請け/27歳で結婚/会社を辞め科学研究に没頭/日中戦争に突入/軍との研究で起業/技術研究会で盛田昭夫と出会う/会社ごと疎開していた長野で終戦/軍が取引先なので仕事がない/部下と上京/ソニー前身・東京通信研究所立ち上げ/炊飯器やパン焼き機をつくるも失敗/ラジオ短波受信機を開発/朝日新聞の全国コラムに掲載/それを読んだ盛田昭夫/「井深さんだ!」/運命が再び2人を結びつける

▼番組概要:

COOや副社長などの「組織のNo.2」。その仕事をテーマに、トップのビジョンの実現の仕方や、仕事の面白さ・大変さなど「No.2の悲喜こもごも」を語っていく番組。製造業に特化したコンサルティング企業、オーツー・パートナーズ取締役の勝見靖英と、幻冬舎「あたらしい経済」編集長の設楽悠介がMCを務める。毎週水曜日配信。

▼番組ハッシュタグ:#二番経営

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オーツー・パートナーズ公式サイト

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▼MC:

勝見 靖英(株式会社オーツー・パートナーズ 取締役)

1971年生。慶應義塾大学文学部卒。ジャパンエナジー(現ENEOS株式会社)、PwC、デロイトトーマツコンサルティング、日本IBMなどを経て、2015年7月よりオーツー・パートナーズに参画、2018年4月より取締役。製造業を対象とした戦略策定、業務改革、ERP/PLM等大規模システム導入等のプロジェクトを多数経験。プロジェクトマネジメント、チェンジマネジメントを得意とし、現在は経営企画/会計/人事総務/組織開発/IT/マーケティング広報等を管掌。HCMIコンソーシアム RX 推進人材・高度ロボットSI エンジニア育成事業技術委員会RX 推進人材育成分科会技術委員。

設楽 悠介(幻冬舎「あたらしい経済」編集長) ⁠⁠⁠https://twitter.com/ysksdr⁠⁠⁠

1979年生。明治学院大学法学部卒。マイナビを経て幻冬舎に。同社でコンテンツビジネス局を立ち上げ。電子書籍、コンテンツマーケティングなど新規事業担当。2018年にブロックチェーン/暗号資産専門メディア「あたらしい経済」を創刊。幻冬舎コミックスの取締役を兼務。「Fukuoka Blockchain Alliance」ボードメンバー。ポッドキャスターとして、Amazon Audible original番組「みんなのメンタールーム」や、SpotifyやAppleにてWeb3専門番組「EXODUS」など配信。著書に『畳み人という選択』(プレジデント社)。

▼ディレクター:

関岡 憲彦

▼プロデューサー:

野村 高文 ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠https://twitter.com/nmrtkfm⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠

▼制作:

Podcast Studio Chronicle ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠https://chronicle-inc.net/⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠

▼カバーデザイン:

松嶋 こよみ ⁠⁠⁠https://twitter.com/kymmtsm⁠⁠⁠

00:01
Speaker 2
二番経営 〜組織を支えるNo.2の悲喜こもごも〜。
この番組では、なかなか表に出ない会社の二番、No.2をテーマに
トップのビジョンの実現の仕方や、この仕事の面白さ、大変さなど
No.2の悲喜こもごもをリスナーの皆さんにお届けします。
勝見靖英
こんにちは、株式会社オーツー・パートナーズ 取締役の勝宮水礼です。
Speaker 2
現当社新しい経済編集長の滋原佑介です。
二番経営第24回始まります。よろしくお願いします。
今回のテーマはシリーズで続いております
世界のソニーを作った森田競に見るNo.2論の第4回目となっております。
勝見靖英
はい、これまで第3回まで来たんですけども、まだソニーが生まれてないですね。
そうなんですよ。
ソニーのNo.2論と言っているところなんですけれども、
創業者の老いたちをずっと語り続けるということをやらせていただきました。
Speaker 2
めちゃくちゃこれまでも面白かったですね。
勝見靖英
ちょっとけうな森田競さん。
Speaker 2
森田競のその血というか。
勝見靖英
すごいですね。
Speaker 2
すごいその歴史を知れて、それが何か受け継がれているみたいなのを感じることができましたね。
勝見靖英
前回の最後の方ですね、森田競さんが会議に入って、
そこで技術研究会で井深政さんと初めて出会うというお話をちらっとさせていただきました。
そこから離れてですね、終戦を迎えて森田競さんは東高大学の講師をやるということで上京しましょうかっていうところまでが前回でしたね。
ここからですね、その途中で登場されてきたソニーのもう一人の創業者である井深政さん登場してきましたけれども、
今回はですね、この井深政さんについてのお話をしていきたいと思います。
井深政さんなんですけれども、
これもですね、森田さんと同じようになっちゃうんですけども、井深家からお話をさせてください。
井深家っていうのは、もともと代々藍津藩氏。
福島県藍津藩の戦国取りといってですね、年収が戦国。
当時はお米の数でその位とかって決まりました。
戦国っていうのはどれくらいかっていうと、
一国がですね、一人1年間のお米なんですね。
一人で食べる1年間ですので、お米1000年分ですね、の給料を毎年もらってたっていう感じです。
つまり1000人の人を食べさせられるものですので、井深家っていうのは当然部下たちもいっぱいいる、そういう家ですね。
で、藍津藩の門抜宮家っていって、藍津藩の家老とか養殖を務める家っていうのが宮家であったそうなんですけども、
そのうちの一つと言われています。
井深勝さんのおじいさんの弟さんはですね、藍津藩の幕末といったら白虎隊という悲劇の話がありますけれども、
03:01
勝見靖英
白虎隊員で飯森山で打ち死にをされるということで、少年兵で五針戦争の時に維新軍と戦ったあの白虎隊ですね。
打ち死にをされた方です。
井深勝さんのおじいさん、井深元井さんという方なんですけれども、白虎隊っていうのは少年兵なんですけども、
それより上の層が須作隊っていう部隊があって、そこで五針戦争でも戦われた方です。
五針戦争でその井深勝さんのおじいさんというのは運良くですね、生き残られたということです。
生き残った後、明治維新を迎えてですね、そこから親国人になります。
親国人というか公務員ですね。どんな公務員だったかというと、北海道知事ですとか愛知県知事にずっと支えるような形ですね。
トップを支えるような形の公務員をされていてですね。
その北海道知事について北海道に行って、今度その知事の方がですね、愛知県の知事に任命されたので、ついてって愛知県に行ってですね。
そこで商工課長ですね。そこのエリアの事業とかをサポートする公務員の仕事。
それから愛知県で壁海軍というエリアがあったそうなんですけど、今の安城市のあたりらしいんですけれども。
そこのですね軍長、今で言うと簡単に言うと安城市長って言ったらいいですかね。
それを歴任されたそうです。
その時にですね、溶水炉の整備などをして、新天開発に力を注いだというのがこの井深本井さん、井深勝さんのおじいさんです。
地元の農民の方から神のように崇められていたっていうふうに。そんな記録も残ってるそうですね。
でこのおじいさんの井深本井さんっていうのは幕末愛図派にいらっしゃいましたので、いろんな方とも接点があって、ちょっとあのマニアな感じになっちゃうんですけども。
山本格磨っていう方が当時愛図派にいましてですね、この方は後に新島城さんと同社大学を越す方なんですけども。
昔大河ドラマで八重の桜というドラマがありましたけれども、そこで主人公八重のお兄さん、俳優さんで西島秀俊さんがやられた役が山本格磨さんなんですけども。
山本格磨さんに宝術を習ったりとか、いろんなことを教えおこうといったというのが井深勝さんのおじいさん。
すごいですね。
愛図版紙で文罰なのですごい武士としてもかなりの位にあった、そういう家柄だったっていうのが井深勝さんの大元です。
この中で1908年に井深勝さんは誕生されます。
生まれた場所は日光です。
日光っていう地名は全然出てこなかったと思うんですけども。
先ほどおじいさんの話をします。
おじいさんは愛知県で安城市長のような仕事をされていたんですけども。
その息子さん、井深勝さんのお父さんタスクさんという方なんですけども、札幌中学を経て東京高等工業、今でいう東京工業大学ですね。
06:08
勝見靖英
これの電気科学科っていうのを卒業して古川工業に就職をされたそうです。
古川工業っていうのは今でいうと古川電工という会社ですね。
古川電工というよりも古川工業っていうのは古川電工も生んだ当時の財閥の一種なんですけども、古川工業の流れっていうのは今回はそんなに触れないんですけれども。
例えば富士電機っていう会社だったり富士通っていう会社も有名ですよね。
そういうふうにずっと今でも大企業として脈々とあるような名門企業に当時東高大を卒業して入社されています。
日光の制度署でエンジニアとして仕事をされていたのがイブカマサルさんのお父さんでした。
優秀なエンジニアだったんですけれども、もうイブカマサルさんが2歳の頃ですね。
まもない頃30歳でこのお父さんが亡くなることになります。
お父さん亡くなりましたということでその日光は職場でしたのでそこから離れてですね。
その時のお母様、沢さんという方なんですけれども、日光からそのおじいさんがいる安城市の方に移るですね。
いわゆる都杉崎の実家に一旦行くんですけれども、当然都杉崎なので結構何ですかね。
やりにくいですよね。自分の実の親ではないので。
なので結果まあ行ったんですけれどもちょっとこう行きにくいじゃないですけれどもやりにくかったんでしょうきっと。
お母さん沢さん若いお母さんでしたので自活を求めて東京に上京することになります。
この若いお母さん沢さんなんですけれども、当時ですね日本女子大学、今でも名門女子大ですけれども、
ポンジョのですね第3期生なんですね。もうそれだけでもなんかすごい新規性のある優秀正しいおうちで、
その女子大学に入学された方っていう印象なんですけども、
それぐらいの時代に女子大学に出られたということですごく自活できるような能力を持った方でした。
日本女子大の付属の幼稚園に仕事を求めてそこで仕事をしながら当時、
いぶかまさるさんを連れて母子家庭ですね。お母さん幼稚園の先生で母子家庭で暮らしをしていたと。
その時にですねお母さんの学友、ポンジョ時代の同級生っていうのが近所に住んでいてすごく親しく交流をしてたそうです。
そのお母さんの同級生の旦那さんっていうのも当然近所に住んでるんですけども、
その旦那さんっていうのが当時法治新聞で記者をされていた野村鼓童っていう方です。
野村鼓童っていう名前って石田さん聞いたことあります?
Speaker 2
名簿がわかんないですね。
勝見靖英
わかんないですよね。じゃあ、銭形平治って聞いたことあります?
Speaker 2
そういうことか。
勝見靖英
銭形平治の原作者なんです。
09:00
Speaker 2
なるほど。
勝見靖英
当時は新聞記者さんなんですけど、その後作家になられてですね、
銭形平治取物帳っていう大人気シリーズを出してですね、
多分リスナーさんはご覧になれたことないかもしれないですけど、銭形平治っていう時代劇のドラマはもうほんと一世風靡して。
Speaker 2
そうですよね。
勝見靖英
大橋圭祐さんがやられて、もう40後半以上の人はみんな主題歌歌えますよね、銭形平治。
確かに。
そういうヒット作を作られる作家さんっていうのが近所に住んでいて、母子家庭ですよね。
お父さんのように慕っていた。そんな幼少時代を井深勝さんは過ごされていました。
Speaker 2
なるほど。
勝見靖英
その時、機械いじりがとにかく好きな子供でですね、母子家庭時代、東京に行った時にですね、
母さんっていうのは毎週のように博覧会とか博物館、上野の博物館ですかね、連れて行かれたそうです。
そこで科学への芽生えっていうのを井深勝少年っていうのは思って、その時に生涯の仕事を決めるきっかけになったというふうにおっしゃってます。
井深勝さんは当時のことを思い返してですね、当時が一番幸せだったっていうことをおっしゃってますね。
親子で毎週のようにですね、そんなところを連れて行かれたと。
Speaker 2
なるほど。
勝見靖英
ちなみにそのお母さんなんですけども、今でもですね、井深勝さんのいろんな本とかに出てくるんですけど、めちゃくちゃ美人です。
今、美しいとかっていうのちょっとルッキズム的に言っちゃいけないのかもしれないんですけども、ちょっとびっくりするぐらいの美人です。
なんですかね、モデルさんのような、なんかちょっと日本人離れした雰囲気を持った感じですね。
Speaker 2
さらにそれでいて、アクティブに時代の先を行くようなことを。
勝見靖英
インテリジェンスもお持ちという方、当然それだけですね、再職顕微のお母様でいらっしゃいますので、きっと男性を放っておかないということで、お母さんも再婚されることになります。
再婚してですね、一旦その再婚した先、神戸にお母さんだけ行かれて、一瞬ですね、井深勝さんはおじいさんのところ、愛知県の安城市に行くことになったらしいんですけれども、
なかなかですね、そこで機械いじりばっかりやっていて、勉強しないということで、このままじゃいけないということで、母親のところに連れて行かれて神戸に引っ越しをしてですね、神戸でスパルタの教育を受けてですね、お母さんインテリジェンスですからね。
そこで神戸一中という名門校に入学することができたそうです。
Speaker 2
神戸一中中学校ですね。中学校から名門っていうのは何かお受験じゃないですけど。
勝見靖英
今のね、感じですよね。
1920何年代の話なんですけども、そんな世界もありましたと。
中学時代はですね、アマチュア無性にめちゃくちゃ没頭していきます。機械いじり大好きということで。
そういう機械をいじりながらですね、行った高校っていうのが、早稲田大学の第一高等学院。おそらく今の早稲田学院ですかね。そこに入学されることになります。
12:10
勝見靖英
ということは自動的に早稲田大学に入学されるということになるんですけれども、中学高校に行って早稲田大学理工学部に入学しました。
早稲田大学理工学部でいろんな研究をしたんですけれども、その時にですね、ケルセルっていうものの研究をしたそうです。
ケルセル、カタカナでケルセルって恥ずかしながら私は何のことか全然わかんないですけども。
工学機器のことらしいんですけれども、その研究をしてですね、電圧をかけるのかわかんないですけど、光が伸び縮みしているようなことを見せることができる装置だったらしいんですけども。
それをですね、走るネオンっていう、走るネオン、残っちゃった感じなんですけども、そういう装置を開発してですね、これが何か不思議なんですけども、
科学少年だったんでしょうね。その発明品をですね、パリでまた開催されてきた万国博覧会に出品することになります。
これあの、森田さんのところの日本史が出たのが1900年のパリ万博ですね。この時は1930年とか何か20何年かだと思うんですけども、
そのパリ万博にイブカ・モサルさんが走るネオンっていうのを出品してですね、そこで優秀発明賞っていうのを受賞するそうです。国際的な博覧会で。
Speaker 2
これ大学の時ってことですよね。
勝見靖英
学生時代ですね。なんかもう学生博士みたいな感じ、研究者みたいな感じで、一役時の人でいろんな科学雑誌に出たりとかっていうことをされたそうですね。
ちなみにその何も知らないで走るネオンっていうので、そういう国際的な賞を取ったんだっていうのは森田明雄少年もですね、地元で見ていたそうです。
中学生。名前とか認識されてなかったんですけどもね。
イブカ・モサルさんはその早稲田大学自体に先例を受けてクリスチャンになられていらっしゃいます。
この時にクリスチャンになられたそのキリスト教を信じるっていう気持ちがですね、その後のイブカ・モサルさんの人間力ですとか、
そういったところにも通じているようなエピソードというかですね、お話っていうのがいくつか出てきたりします。
早稲田大学を卒業するタイミングにだんだん近づいていくんですね。
就活をしていくことになります。1933年25歳の時にですね、就活をすることになったらしいんですけども、その時にですね、第一志望は東京芝浦電機だったそうです。
つまり今の東芝ですね。見事入社試験で不合格だったそうですね。
不合格でそこが第一志望だったらしいんですけれども、ただ学生研究家としてケルセルっていうものを研究して、それを評価してくれる会社があるぞというふうに紹介されて入社したのがPCLという会社だそうです。
15:04
勝見靖英
PCLっていうのはフォトケミカルラボラトリーの略で写真科学研究所っていうところですね。当時もなんかこのアルファベットでPCLということだったみたいなんですけども、この写真科学研究所っていうのは何をしている会社かっていうと、当時ですね、映画が流行ってました。
映画が流行ってたんですけども、今の映画と違ってですね、映像は映ります。でもセリフは聞こえてこないんですね。
そのセリフをですね、映画館の前にスクリーンの横にですね、弁士という人がいてですね、セリフを喋る、そういう映画だったんですね。
女性のセリフ、男性のセリフ、海外の映画であろうとですね、弁士の人が言葉巧みにですね、こう臨場感を持って話す、それが映画だったんです。
Speaker 2
ただですね、このエブカマザルさんが就職するときには陶器っていう技術が始まり始めて、陶器っていうのは映像と音声っていうのが同期した映画のことなんですね。今では当たり前です。
勝見靖英
それをやっていくときにですね、昔は弁士が映像だけ撮る映画の会社ばっかりだったんですけども、そこでその陶器の技術を専門にやる映画の日活って会社が今でもありますけれども、
日活の下請けの研究所としてできたのがこのPCLっていう会社だったそうです。このPCLっていう会社はですね、その陶器っていう技術の走りの時にはそれを研究していればよかったんですけれども、
だんだんそれが当たり前になってくると、それだけでは商売化が成り立たずに映画会社にどんどん変貌を遂げていくことになるそうです。
1年2年その陶器の仕事を井深さんはしているんですけども、その時にですね、27歳の時に結婚をされることになります。その結婚のお相手というのがですね、紹介してくださったのが先ほどのゼニガタ兵士を描いたと言ってた野村孤童さんのご紹介で前田多聞さんの次女を紹介されます。
前田多聞、名前がすごいんですけれども、前田多聞さん、私も知らなかったんですけれども、当時はですね、文部大臣です。そんな近所の幼なじみじゃないんですけれども、知り合いの人気作家かもしれないですけどいきなり文部大臣のお嬢さん紹介するかねって思うんですけれども、
要ほど野村孤童さんの顔が広く、かつ井深勝さんが人間的にも信頼されていたんだと思うんですね。前田多聞という人がいてそこに2羽目のお嬢さんお前お嫁さんどうだと言われてですね、そこで会いに行ったそうなんですね。そこで行って初めてその将来のお嫁さんと対面するんですけれども、
勝見靖英
その時井深勝さんというのはお嬢さんよりも自分は義理の父になるかもしれない前田多聞さんという人にすごく心惹かれたというふうに残してるんですね。もうなんかすごい人物だったでしょうね。文部大臣の前にはいわゆるエリート官僚をやられてた方ですので、政治家でもあり優秀な行政家でもある前田多聞さんという方が人間的な魅力を持たれた方なんだと思います。
18:03
勝見靖英
そのお嬢さんと結婚することになりました。これがPCLという会社になるんですね。その会社は結婚して直後なんですけども、ずっと陶器から映画の会社になっていって、この井深さんは音声のところ、映像をちょっと絡ませる音声のところに興味があったけど、映画を制作するってことでどうしても興味が持てないということで、その時の幹部の人に相談をしてですね、
なんかちょっとこの会社を辞めたいです。だったら会社を作ろうということで、日本高音、日本に光る音と書いてですね、日本高音という会社が設立されて、井深さんっていうのはそこで無線部っていうところに配属されてですね、好きな研究やっていいと。主任という立場で好きな研究をするということをいろいろし始めていました。
1937年でその会社ですので、2年経って1939年日中海戦で戦時間にどんどんなっていくわけですね。これでそういう科学系の仕事をやっている会社っていうのがどんどんですね、文から仕事が来るようになっていきます。で、無線なども扱っているということで文からの仕事が多くなっていくと。
でもなんかトーキーっていうところにこだわった会社でもあったので、今度なんかそれが窮屈になってしまって。もともと映画が嫌だ、トーキーだけでって言って作った会社だったんですけど、このトーキーが今度邪魔になって。軍の仕事っていうのはもうありとあらゆる技術的なことをいろんなことをやらせてもらえるんで。
もう多分井深正さん何でもかんでもやりたい。そこでいろんな最新技術に触れるあるいは自分が作っていくってことにどんどん魅了されていってですね。それでやっぱりなんかこの日本コーンって会社でもないだろうということで、同じくですね当時のその会社のマネジメントに行って、じゃあその軍の仕事もバリバリできるような会社を新たに立ち上げようということで1940年、井深さんが33歳の時に日本測定機株式会社という会社を作ってですね。
そこで常務取締役として入社されることになります。従業員30名でのスタートですね。
なのでこの会社っていうのはいろんなものを作られたそうなんですけれども、一個は音差発信機、周波数計電機などを製造って書いてあるんですけど、ちょっとよくわかんないですけども、ただそれは軍事用に使っていたレーダーなんかに使われる。
そんな部品だったみたいですね。でどんどんどんどん規模も拡大していったということになります。30名の会社のものを作る技術的な会社の常務取締役としてエンジニアとしてですね、ものづくりに励んでいたと。それが1940年。
ここからですね、1945年いよいよ運命の時を迎えてくるわけですけれども、38歳になりましたと。そこで前回ですね、森田さんのところに出てきた戦時研究会というところで、当時の海軍技術中尉であった森田競さんと出会うことになるわけですね。
この時、井深さんの発言でももう最初から2人はぴったりだったってことを残してます。2人はその頃からよく馬があった。森田君は反対理学部出身の優れた技術商工だったが、そうした彼の教養に私の心を動かすものがあり、研究を通して心と心の結びつきを深めていったという記録が残っています。
21:18
Speaker 2
運命の瞬間の逆サイドから見た感じですね。
勝見靖英
もうお互い相思相愛だったという感じ。
Speaker 2
いやでも結構な年の差ですもんね。
勝見靖英
13歳。
Speaker 2
13歳離れ、38と新卒の子みたいな感じじゃないですか。その年齢で言うと。森田さんは23、4とかだったと思うんですよね。
勝見靖英
そこはひょっとしたら井深さんが年齢とかなんかで人を見ないようなすごくフラットな方とも言えますし、森田清さんが年齢を超えた町屋の部分っていうのがあったとかそういう感じかもしれませんね。
Speaker 2
役員会、小学校から出てますからね。
勝見靖英
そうなんですね。
Speaker 2
なるほど。
勝見靖英
それで1945年に2人出会ったんですけれども、その年に終戦を迎えることになります。
Speaker 2
当時の日本測定機という会社の工場っていうのは長野に疎開をしていましたので、そこの疎開先で終戦を迎えることになります。
勝見靖英
終戦を迎えました。その日本測定機っていうのは軍の仕事をするために作ったような会社でしたので、そこで終戦になると仕事がそこでゼロになっちゃうわけですよね。
そうするとこれからどうしていくのかっていうのを日本測定機の重役会議で検討することになります。
そこで方針が割れるんですね。日本は敗戦直後、物がない、食べる物もない。
でも疎開した長野っていうのはリンゴ畑の中に工場を作ってたみたいなので、食べる物はある。平和に暮らしていける。
ちょっと東京行ってもやけの腹だし、まずは落ち着くまでしばらくここで様子を見た方がいいんじゃないかっていう風に考える、買う。
それからいやいやいやいやもう今でしょ。急いで東京に行かなきゃっていう風に進出を考える派閥という2つに分かれたやつです。
で、イブカマサルさんっていうのはその後者の、もう今東京に行くでしょっていう方だったんですね。
それでイブカさんは部下7名を連れて上京していきます。
上京するとですね、日本橋にですね、当時白木屋という百貨店、デパートがありました。
この日本橋の白木屋百貨店っていうのは東急百貨店にその後なっていくんですけれども、昔からある老舗の百貨店ですね。
そこが東京は屈折を受けていますのでボロボロになってるんですけども、そこがですね、やけ残っていまして、そこの百貨店の3階の一室を借りれることになりました。
3階の一室なんですけども、実際はですね、その百貨店の中の配電室、配電盤室ですね。
いろいろ電気とか部品とか入っているところが1個空いててですね、空襲を受けた後の状況ですので、壁ひび割れて窓ガラスはなかった。
その一角を借りることができたということだそうです。
24:03
勝見靖英
ちなみにこの日本橋の白木屋っていうのは今で言うと、東京にいらっしゃる方はわかるかもしれないですけども、これが日本橋っていう。
あそこですね。上の方に昔メルリリンチの後ろ幕がありましたけれども、あそこですね。
あのあたりに会社というかですね、当時は東京通信研究所っていうのを設立していきます。
めっちゃ場所がいいところですよね。
いいところなんですけども、建物はそんな状態っていう感じでした。
この東京通信研究所っていうのはどっちかというと、いぶかさんの個人企業みたいな感じですかね。
株式会社の体裁もなってないような、とりあえず7名いるんで、なんかみんな呼んで看板だけ掲げたみたいな感じです。
最初はもう何をやるのかもよくわからなかったところでですね、いぶかさんは自分の貯金を切り崩して7人のメンバーの給料を払い続けるということをしたそうです。
最初にですね、その研究所で作った製品として何しようかっていうので、もういろいろ考えたそうです。
東京やけの原ですので、なんかちっちゃいゴルフ場を作ろうかとか、そういうわけわからないアイデアも出るようなことを話していたそうなんですね。
最初にですね、やったことは千葉県のある市下町からですね、お筆木製のお米を入れるお筆をですね、大量に買ってきてですね、その底のところに電熱線を引いてですね、なんかもう電気炊飯器みたいなものを作ったそうです。
それが第1号の製品だったんですけども、全然お米が炊けずにですね、失敗で終わったと。
ソニーっていう会社の失敗の第1号だって言ってますけども、炊飯器作って失敗しました。
次にですね、同じ原理を使ってパン焼き器を作ってみました。ただこのパン焼き器っていうのは残念ながら未完成で終わりました。
電熱線を入れる製品つながりでこの電気座布団っていうのを作ったんですね。
座布団の中に電熱線を入れてあったかくなるようなやつですね。
そうしたらですね、これが結構売れたそうです。
闇市で飛ぶように売れたっていう記録が残ってます。
ただその時にですね、座布団って畳んだりするじゃないですか。
Speaker 2
そうすると電線がですね、断裂してそこからですね、よく火事が起きたらしょうがない。
勝見靖英
危なくてこの東京通信研究所で作った座布団じゃなかったみたいなんですけども、結構その電気座布団って当時流行って始めたみたいで、それが原因の火事がしょっちゅう起きてたみたいで。
Speaker 2
東京住んでて、消防署の枯れがなるとうちのじゃないかずっとビクビクしながら過ごしてたっていう記録が残ってます。
勝見靖英
そんなことをやっていたんですけれども、やっぱり江深政さんとしてはちょっとオフィスでもないな、座布団作るために作った会社じゃないぞっていう思いがあったんです。
みんなですね、じゃあ何作るかっていうときにラジオを作りたいっていうふうにみんな言ったらしいんですね、当時の7名のメンバーは。
でもラジオって当然その中に日本でいっぱいあったわけですよ。
江深さんっていうのはとにかく新しいものが作りたいですね。
世の中にないもの、だからなんかオフィスに電気炊飯器みたいなものを作ったりとか。
世の中ないものを作りたいということで、そこの設置案じゃないんですけども作ったのが、短波ラジオを聞けるようになる短波の受信アダプターっていうのを作ります。
27:07
勝見靖英
これは何かというとみんなラジオを持ってるんですけども、当時情報に埋めていて、短波放送っていう特定の周波数じゃなきゃ聞けないところでも情報が流れていたんですけども、それを普通のラジオで聞くことができなかった。
そこの普通のラジオに当たってつけると短波放送っていうのは受信できるような、そのアダプターを作るようにしたらしいんですね。
それを作った状態でですね、先ほど出てきた野村孤童さんの紹介でですね、朝日新聞でですね、コラムで青鉛筆っていう名物コラムがあったそうなんですけども、そこにですね、なんか紹介されたらしいんですよ。
どんな紹介かっていうと、前田文部大臣の娘向こう。ここでゲリのお父さんのお前を聞いてるんですね。
で、大臣の娘向こうで、早稲田大学の理工科で講師やってた井深勝氏は、日本橋白木屋3階に東京通信研究所を立ち上げ、短波受信機を普及させようと乗り出した。
得意の技術が少しでも役に立てばと、わちの学者として新たに出発したのであるみたいな感じで、当時のコラムラにガーッと出たんですよ。朝日新聞。
それを読んだ人たちっていうのは、どんどんラジオも直してくれるそうですみたいな意地があったんで、どんどんですね、その白木屋の前に行列をなしてお客さんが出てきたという感じの反響があったそうなんですね。
それでそのメカ、エレキの電気の製品っていうのを短波受信アダプターっていうので見事成功するきっかけになったこのコラムだったんですけども、朝日新聞全国紙ですね。
全国紙のコラムですので、これをですね、行列に並んだ人たちだけじゃなくて読んだ人がいました。
それが愛知県でこれから東高大の先生になろうって言って東京に行こうとしていた森田競さんがその新聞記事を読んでいた。
Speaker 2
この頃は知り合った後ですもんね。
勝見靖英
知り合った後です。
Speaker 2
じゃあ出てるみたいな感じで。
勝見靖英
そうですそうです。
Speaker 2
今こんなことやってるなんて、これ新聞で知ったかもしれないですね。
勝見靖英
その通りなんです。
いつか一緒に何かやりたいと思ったんですけども、お互い修正を迎えて別々の道を歩んでいた。
ところがたまたま読んだ新聞のコラム欄に、いぶかさんちゃんっていう感じで。
Speaker 2
ですよね。
勝見靖英
なっていたっていう感じでございます。
Speaker 2
すごいなー。ちょっともうドラマみたいな。
で、この時の東京通信研究所がいわゆるソニーの。
勝見靖英
おっしゃる通りです。
前進ってことですよね。
前進になってますね。
Speaker 2
うわー。
勝見靖英
ソニー・モリタ協論と言いながら、第4回そろそろ終わる時期ですけれども。
Speaker 2
終わってまいりましたが。
勝見靖英
ようやくソニーの前進がちょっと見えて。
ただまだナンバーワンのいぶかまさるさんとモリタさんが一緒に会社をやるっていう直前の状態ですね。
Speaker 2
直前ですね。
まだ遠くで知ってる感じですもんね。新聞で。
勝見靖英
そうです。愛知県にいる状態ですね。まだ再開もしてないから。
Speaker 2
いやー面白い。運命って面白いですね。
30:02
Speaker 2
これがそもそも朝日新聞のコラムラに押し込めた作家さんだからできたみたいなのもあるだろうし。
さらに文部大臣の娘向こうじゃなきゃ記事にならなかったかもしれないじゃないですか。
このタイトルの付け方まさに。
勝見靖英
いやーもうほんとそうなんですよね。
Speaker 2
だからなんかいろんな運命があって。
勝見靖英
運命ですよね。野村孤童さんがキーマンとして出てくるわけですけれども。
野村孤童さんと知り合ったきっかけっていうのは、お母さんの大学の同級生の旦那さんだったわけですから。
お母さんが日本女子大の3期生だったわけですよね。
なるほどね。
そっからですし、当然そのお母さん沢さんが女子大に行く理由とかストーリーっていうのはきっとあったはずなんで。
そういったものが繋がって繋がってここに来てるっていう。
Speaker 2
いやーすごいですね。
ということでまだまだ続きがどんどん気になって。
回を追うごとに気になってくるんですけれどもちょっと今回はこの辺りで。
次回はだからいよいよ2人が再び再会してという話になるんじゃないかと思っております。
ぜひとも次回お楽しみしていただければと思います。
2番K No.2の引きこもごもここまでお聞きいただきましてありがとうございました。
気に入っていただけましたらぜひフォローの方お願いします。
番組への感想もお待ちしております。
それではここまでのお相手はしだれゆうすけと
勝見靖英
勝宮すいででした。ありがとうございました。
Speaker 2
ありがとうございました。
31:35

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