1. 二番経営 〜組織を支えるNo.2の悲喜こもごも〜
  2. #33 函館・五稜郭での壮絶な最..
2024-10-16 19:06

#33 函館・五稜郭での壮絶な最期。本当に「最後の武士」だったのか。鬼の副長・土方歳三編⑤

▼今回のトーク内容:  近藤勇亡きあと/土方は千葉で旧幕府軍の部隊と合流/新幕府軍が守る栃木・宇都宮城を一日で陥落/土方は怖気づく味方兵をその場で切り捨てる/厳しく守る軍律/攻城戦で負傷し福島・会津で療養/会津でも新政府軍vs会津藩が激突/土方は仙台へ逃れる/旧政府軍の海軍と合流し函館へ/函館で新政府が設立される/土方はNo.4に/1869年、五稜郭での最期/享年35歳/函館政府軍は降伏/改めて土方歳三の人生と新選組を回顧/新選組という組織の持つ「企業っぽさ」/土方がつくった組織運営法/武家の出身なら違った/薬商の家に育ったからこその合理的・近代的な組織運営

▼番組概要:

COOや副社長などの「組織のNo.2」。その仕事をテーマに、トップのビジョンの実現の仕方や、仕事の面白さ・大変さなど「No.2の悲喜こもごも」を語っていく番組。製造業に特化したコンサルティング企業、オーツー・パートナーズ取締役の勝見靖英と、幻冬舎「あたらしい経済」編集長の設楽悠介がMCを務める。毎週水曜日配信。

▼番組ハッシュタグ:#二番経営

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オーツー・パートナーズ公式サイト

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▼MC:

勝見 靖英(株式会社オーツー・パートナーズ 取締役)

1971年生。慶應義塾大学文学部卒。ジャパンエナジー(現ENEOS株式会社)、PwC、デロイトトーマツコンサルティング、日本IBMなどを経て、2015年7月よりオーツー・パートナーズに参画、2018年4月より取締役。製造業を対象とした戦略策定、業務改革、ERP/PLM等大規模システム導入等のプロジェクトを多数経験。プロジェクトマネジメント、チェンジマネジメントを得意とし、現在は経営企画/会計/人事総務/組織開発/IT/マーケティング広報等を管掌。HCMIコンソーシアム RX 推進人材・高度ロボットSI エンジニア育成事業技術委員会RX 推進人材育成分科会技術委員。

設楽 悠介(幻冬舎「あたらしい経済」編集長) ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠https://twitter.com/ysksdr⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠

1979年生。明治学院大学法学部卒。マイナビを経て幻冬舎に。同社でコンテンツビジネス局を立ち上げ。電子書籍、コンテンツマーケティングなど新規事業担当。2018年にブロックチェーン/暗号資産専門メディア「あたらしい経済」を創刊。幻冬舎コミックスの取締役を兼務。「Fukuoka Blockchain Alliance」ボードメンバー。ポッドキャスターとして、Amazon Audible original番組「みんなのメンタールーム」や、SpotifyやAppleにてWeb3専門番組「EXODUS」など配信。著書に『畳み人という選択』(プレジデント社)。

▼ディレクター:

関岡 憲彦

▼プロデューサー:

野村 高文 ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠https://twitter.com/nmrtkfm⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠

▼制作:

Podcast Studio Chronicle ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠https://chronicle-inc.net/⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠

▼カバーデザイン:

松嶋 こよみ ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠https://twitter.com/kymmtsm⁠⁠⁠⁠⁠

Summary

このエピソードでは、新選組の副長である土方歳三の壮絶な最期が描かれており、五稜郭での戦闘や彼の使命感が強調されています。また、新政府と戦う旧幕府軍の状況や、土方の死後の新選組の状況にも触れられています。エピソードは、土方歳三や新選組の役割について再考が行われ、彼らの組織の近代性と合理性が強調されています。そして、最後の武士というイメージが真実とどのように異なるのかが考察されています。

00:01
Speaker 2
二番経営 〜組織を支えるNo.2の悲喜こもごも〜。
この番組では、なかなか表に出ない会社の二番、No.2をテーマに、
トップのビジョンの実現の仕方や、この仕事の面白さ、大変さなど、
No.2の悲喜こもごもをリスナーの皆さんにお届けします。
Speaker 1
こんにちは、株式会社オーツーパートナーズ 取締役の勝宮すいでです。
Speaker 2
現当社新しい経済編集長のしだれゆうずけです。
二番経営第33回、今回のテーマは、
近藤勲の死後の土方の行動
Speaker 2
新選組鬼の副長・石方としぞうに見るNo.2論の第5回目になります。
Speaker 1
はい。前回からの続きということなんですけれども、
前回ですね、近藤勲が処刑されてしまったというところで、
その情報をいつ石方としぞうが聞いたのか、
で、聞いた時の反応というのはちょっとわからないですよ、
っていうのがあったと思うんですけれども、
今日はそのトップなき後のNo.2という感じになってくると思います。
はい。
近藤勲が亡くなった後なんですけれども、
前回ですね、石方としぞうが、近藤がいつ亡くなったかわからないので、
なるべく江戸から離れずにうろうろしていたというところはあったと思うんですけれども、
その後なんですけれども、
河野台という千葉県の市幹市に今でも地名が残っているんですけども、
そこに旧幕府軍の兵力が集まっているということがありまして、
石方としぞうはちょっといい加減待ってもらえないということもあってですね、
そちらの方の兵と合流をしていきます。
その市幹に集まった兵がどこに行くかというところなんですけれども、
宇都宮戦と戦績
Speaker 1
都知事権の宇都宮ですね。
宇都宮に宇都宮城というお城があったんですけれども、
ここはすでにですね、新政府軍が占拠している状況ということになります。
その関東っていうのはですね、江戸幕府はもう終わりを迎えているんですけれども、
徳川家の領地が関八州という関東エリアにありましたので、
そこを守るということですね。
そういった意味合いもあって、宇都宮に旧幕府勢力と一緒に移動していきます。
その宇都宮城なんですけれども、
新政府軍が600人でその城を守っているという状況でありました。
攻城戦っていう城を攻める戦いっていうのは、
どんな戦でも非常に難しいとされているんですけれども、
そこでですね、石方都市蔵が戦法隊250名を率いてですね、
そこで大砲と鉄砲を撃ちまくって城下に火を放ってですね、
あっという間に1日でその城を陥落させると。
その時はですね、戦争なのでひよってる前方にいる後兵がいるとですね、
その自分の味方の兵を切り伏せてどんどん進め進めっていうふうに、
本当に鬼のようだったと思うんですけれども、
引かせなかったと。
戦場からですね、その場から逃げるっていうのは、
軍隊としては軍律違反で一番罵られるようなところ、
異常事態でありますので、
そういうのを徹底していたということだと思うんですけれども、
こういう軍律違反者に対して厳罰をするっていうのはですね、
京都の新戦組でも同じようにしていました。
新戦組っていうのは武士だけじゃなくてですね、
いろんな職業の人たちが集まっての中号隊だったんですけども、
下手すると蠢の衆になっちゃうと。
そういった部来人の輩っていうのをですね、
立するにはやっぱり見せしめとしての士以外にはないっていうふうに、
かなり過激な思想を持っていました。
ただですね、それは大規というか中でのルールなんですけれども、
実際にはですね、それをしっかりと守ったことで、
その戦争時ですね、市民に対する乱暴とか略奪とかっていうのは、
どんな戦いの時にも起きる日本の母親戦争でも同様だったんですけども、
肘方俊三の背下の兵では絶対そういうことは起きなかった。
とにかくこの1日で城を落としたっていうのはですね、
かなりすごいことなんですね。
ずっとこれまで旧幕府軍っていうのはもうひたすら負け続けて負け続けて、
どんどん逃げ延びてきてるっていう状況ですので、
その中のこの奇跡的な勝利というのがですね、
さらに新選組の代表でもあるような肘方俊三が、
この母親戦争の中で奇跡的な勝利をしたっていうことでですね、
肘方俊三の存在感っていうのがグッと増してきています。
というのも、我々新選組の副長っていう感じでずっと話してきてるんですけども、
幕府の中ではですね、旗元にもなってない、
ほんと下っ端中の下っ端なんですよね。
新選組の大使っていうのは副長であってもですね、
そういった中で一部隊を率いて大活躍をするということでですね、
伝州第一大隊、隊長っていうのに就任します。
これは軍隊の一士団をですね、
率いるような司令官に近いようなそんな位置づけですね。
新選組だけではなくて旧幕府軍の数百名の部隊をですね、
率いるそういう役割に抜擢されます。
新選組っていうのはどんな人も知っていましたので、
ちょっと一種象徴的な存在として、
そこでですね、存在感を表しているという、そんな状況です。
宇都宮戦ではですね、一日で城を落とすというふうな結果を残したんですけれども、
そのタイミングでですね、足を負傷してすぐには動けない状態になってしまいます。
療養するということで一時的に避難をしたのがですね、
今の福島県の藍津ということになります。
藍津というのはですね、松平固森のお膝元ですので、
一番ですね、母親戦争が激しかった、まあそういうところです。
藍津城の牢状戦というのは白虎隊ですとか、いろんな話があると思います。
大河ドラマでもややの桜なんかでも出てきましたけれども、
ちなみに藍津の牢状戦なんですけれども、
有名な白虎隊もいるんですけども、
須作隊という、また名前の隊があってですね、
ちなみにその須作隊で戦ってたのが、前シリーズのソニー編でやった、
いぶかまさるさんのおじいさんですね。
いぶかもといさんがこの須作隊で、藍津牢状戦で戦ってました。
すごいですね。なんか繋がってきちゃった。
強引に繋げてみたって感じですけれども、
それぐらいですね、いぶかまさるさんのおじいさんなので、
一時代前の方ではあるんですけれども、
そのおじいさんというのはその後、北海道地域とか愛知県知事に仕えてですね、
地方の官僚として活躍して、最終的にはですね、
安城市の市長のような役割を歴任されて、
地元の農民のために養水炉とかを整備して、
地元の農民から神のように崇拝されていたという記録が残っておりますけれども、
この時にはですね、旧体制対新体制みたいなところで、
最前線で戦うそういうことをされていたと。
そんな大戦をやってる合図で療養するという感じになって、
実際には動けないという状況ですので、
藤方敏夫はですね、この愛知の牢城戦には参加しないでですね、
実は愛知から仙台の方に逃れてですね、
そこで旧幕府軍の海軍と合流をしていきます。
この旧幕府軍の海軍を率いていたのが榎本武明という方ですね。
榎本武明っていうのはその幕府の中の海軍の司令官をやっていた方でして、
この後五人戦争が終わった後もですね、生き延びて、
新政府の中で外務大臣ですとか、
提審大臣、提審っていうのは通信ですとか、
そういったところの町だったり文部大臣だったりですね、
かなり養殖を務められるという方が、
ここには旧幕府の体制の中にいたんですけれども、
Speaker 2
榎本武明と合流して函館とですね、逃げていくという感じになります。
五稜郭での最期
Speaker 1
ここで函館というのはですね、いよいよ石方都市蔵の最後の地ということになっていくんですけれども、
この函館に榎本武明と入った時にですね、
この旧幕府軍っていうのは函館に新政府っていうのを立ち上げるんですね。
ただ逃げてきた旧勢力ではなくて、
ここを拠点として北海道を独立させるみたいなイメージですね。
その函館政府っていうのを作ってですね、旗元にもなっていなくて、
ただ軍隊の司令官みたいな仕事をちょっとやり始めた石方都市蔵が、
その新政府の中のナンバーフォーのポジションになっています。
幕府で言ったら老中に近づいてるような職業ぐらいですね。
非常に小さい地方の、そこから反政府軍みたいな感じではあるんですけども、
そこで陸軍武業並というポジションにつきます。
そのときにですね、自分は近藤とともに死ななかったのは、
ひとえに徳川家の濡れ衣を注ぐためだ。
万が一許されたなら、面目なくて近藤にまみえることはできない。
近藤が果たせなかった徳川家の濡れ衣を注ぐのが自分の使命である。
ずっと一貫して思い続けていた。
その函館にですね、五陵角という五角形の有名なところがありますけども、
そこが拠点になっているわけですけども、
その中で1869年5月、その五陵角を出て一本木関門というところを通ってですね、
仲間を救いに行くという説もあるんですけども、
そのときにですね、馬場で式を取っていた
肘方俊夫の腰の部分をですね、鉄砲で貫かれて、そこで戦死するという最後を迎えます。
そのときに残っているのは肘方というのは非常に厳しい人でもあったんですけども、
常に部下を大切にしているんですね。
戦闘のときはとにかく真っ先にウォーと行ってですね、進んでいったと。
なので兵たちはみな勇敢に戦った。このために負けることはなかったと言われています。
亡くなったのは去年35歳ということになります。若いですよね。
このときなんですけれども、肘方俊夫が戦死をしてですね、
まもなくその函館政府軍というのは降伏をします。
そのときにですね、残っていた新選組というのは92名だったそうです。
京都から続いてきた大使というのは13名ですから、
新選組とは名乗ってもその後京都を出てですね、江戸ですとか、
そういったところから合流した人の方が圧倒的に多かった。
池田屋以前のメンバーは2人しかいなかったということですね。
最後の新選組隊長には相馬主計という方がなっていたんですけども、
当然ですね、後から入った方なのでほとんど知られることはなかったという感じです。
近藤勲が亡くなった後ですね、別の宮で後退活躍をするもののですね、
この間1年未満なんですけれども、一気にですね、
旧幕府軍というところではあったんですけれども、
本当の戦争ですね、京都でやっていた警護ですとか、
暗殺的な仕事という極地戦ではなくて、
本当に戦争の指揮官で才能を開花してですね、
最後こっちっていった、肘肩と首相でしたと。
近藤勲が亡くなった後の肘肩なんですけども、
新選組時代にですね、鍛えていた単力というか組織を率いる力に加えて、
武人としての決断力、指導力を発揮し始めというふうな評価を得ています。
肘肩が亡くなったときにですね、周りの人、あるいはその90何名残った大使っていうのはですね、
赤ん坊がお母さんを亡くしたごとく悲しんでやまなかったということが言葉として残っていると。
新選組の再考
Speaker 1
というのが肘肩と首相の最後でした。
Speaker 2
さっき後ろから斬りつけてたみたいな話ありましたから、かなりピリピリしてたのかと思いきや、
でもちゃんと統制が取れてたみたいな、そっちも考えてるってことですよね。
Speaker 1
ただの恐怖政治を引いていたっていうよりも、守るべきところは守らせて、優しくしていたということなんですかね。
というのが肘肩と首相の最後でございました。
ここからですね、改めて肘肩と首相もそうなんですけども、
彼が人生を費やした新選組についてですね、もう一回振り返りながら見ていきたいなというふうに思います。
その中で肘肩と首相がどういう役割、何を考えていたのかっていうのを、
今歴史をバーッと取ってきましたので、ちょっと確認をしながらいきたいと思うんですけれども。
新選組、肘肩と首相も近藤勲もですね、農民出身なんですけども、
最後の方が非常に武士らしい武士だったとか、最後の武士なんじゃないかっていうふうに言われることって結構多いです。
小説とか映画とかでそんな雰囲気で扱われることっていうのが非常に多かったんですけども、
本当にそうなのかっていうような研究者っていうのもいてですね、
それがまさに私自身も肘肩と首相の今回確認できたイメージにつながってるかなというふうに思うんですけれども、
新選組という組織なんですけれども、服装っていうのはよく映画とかで見るお揃いの羽織を着てますよね。
ギザギザの模様がついていて水色っぽいやつ。
そういう制服を着ているっていうところから始まっているんですけれども、
その後、母親戦争の後半ですね、江戸に入ってから基本的には洋装化しています。
新政府対旧幕府の戦いって、お侍さんと洋装を着た新政府軍の戦いのイメージがあるんですけれども、
この時の新選組は完全に洋装をしています。
京都の方に戻りまして、その人員構成っていうのは武士だけではなくて、
百姓、商人、職人、庁人、お医者さんですとか、いろんな職業の人で舞台を作っていた。
つまり武士だからっていう組織ではなくて、機能的に必要なもの、思いのある人を集っていたというところですね。
それから組織自体もですね、一番上が局長だったり、総長といったり、そういうトップがいて、その後副長とか組頭というふうにですね、
ただ集まってて、なんか親玉が一人いるっていうんじゃなくて、結構組織としてですね、組がいくつも分かれていて、
そのトップがいて、その上にまた全部を滑る局長がいて、というふうにかなり組織化された状態になっています。
ですので最初の頃にですね、ちょっと混同がだいぶ天狗になっちゃってっていうクレームを故郷の人に言うっていうのがあったんですけども、
この時にはですね、同志の組織からですね、官僚制に近いような組織っていうのを100名の中で作っていったっていうのがあります。
それからよく新選組、石方都市総は厳しい厳しいというのがあったんですけども、
法律の方に温度の度ですね、そういう厳しい法度っていうのを作って体内の秩序を守ったと。
非常に厳格なですね、何をすべきではない、何をすべきであるっていうことを明文化して、それをとにかく守るということですね。
やっちゃいけないのは指導に背くこととか、局を脱すること、勝手に禁策すること、勝手に訴訟を扱うこと、
まあ死闘の禁ずというのもありました。でそれを守らないともうすぐ接吻という現場ですね。
それから給料っていうのも役職によって決まっていくという感じで。
会社っぽいな。
そうですね。まさに会社っぽいんですよね。
普通の部士だとその家がどういう家でいくらもらうっていうのがもうだいたい決まってるようなことが多いんですけども、
例えば全部現金支給でした。局長が50両、副長40両、副長助金が30両というふうに給料が決まっていたと。
それからそのまま局長、副長とかあと組頭というのがあるんですけども、そういうのはもう全部活躍するとですね、
どんどん出世できるようなかなり実力主義、業績主義というふうにもなっています。
池田屋事件の時なんかもそうなんですけども、活躍したときにですね、朝廷から報酬金もらったりとかもあるんですけれども、
それもですね、もう論考交渉が非常に明確で、誰誰いくら、誰誰いくらっていうのがかなり細かく定義されているような感じですね。
なので、彼は武家で偉いのでいくらだとか、どっかの道場を率いている大先生だから偉いんだとか、
完全実力主義というのが徹底されていたということになります。
Speaker 2
このあたりはやっぱりいじ方が組み立てていったところと考えられるんですよね。
仕組みというかも。
Speaker 1
この組織を作るのは、いじ方俊三がゼロから考えたという感じではなかったかもしれないんですけれども、
おそらく何らかの目的を達成するためにですね、最善の策というのを取っていったんじゃないかなというふうに思うんですね。
これはいじ方俊三が武家の出身であったら、多分武士として考えなくてはいけない階級というか階層というのはかなり意識したと思うんですけども、
薬を売っていた商人ですよね。だから非常に公理的な考え方をしていたと思いますし、
実際に石田山薬というこの薬をですね、その村の人たちを率いて草を取ってですね、干して粉にしてというような作業もいじ方俊三が指揮してたという話もあるんですけれども、
お金を出して動いてもらうということを聞かないときにどうするかというのは、なんとなくその10代の頃から意味染みていたんじゃないかなという気はしますね。
そこで何よりも求めたのが合理性ですね。それを求めていくと近代性というところにつながっていくというふうに思われます。
あの新選組の特徴を見ていくとですね、どのどの最後の武士というイメージとはちょっと違ったものが出てくるんですけれども、そろそろお時間でもあるので、
一旦ここまでにして、その近代性とその中でですね、肘方俊三がちょっとこだわったことなんかありますから、それ次回に続けていきたいと思います。
近代性と合理性
Speaker 2
はい、ありがとうございます。
2番K、No.2の引きこもごも、ここまでお聞きいただきましてありがとうございました。気に入っていただけましたらぜひフォローをお願いいたします。
番組への感想もお待ちしております。ここまでのお相手はしだれゆうすけと
Speaker 1
勝宮水礼でした。ありがとうございました。
Speaker 2
ありがとうございました。
19:06

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