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おはようございます。働く人に送る精神分析チャット、第1061回をお送りします。
9月27日、金曜日、8時1分です。
ものすごく中途半端な気温と天候で、今にも雨が降り出しそうで、クーラーかけないとじんわり、少なくともこの収録をしていると暑くなりそうなんだけど、
クーラーをかけて何もしないと寒い。非常に困る感じの気候で、困りますが、お知らせにしておこう。
10月13日の神保町でやるイベント、名前何にしたんだっけ?
100日セラピーイベント。よくわからない名前になってますが、働く人に送る、違うな。
とにかく、3ヶ月セッション。働く意欲を取り戻す、働くメンタルを取り戻す3ヶ月セッション。
ワンデイ。働くメンタルを取り戻す、ワンデイグループセッションかな。多分そういう名前にした気がしました。
これはつまり、昨日も話しましたけど、3本立てにしてタスクシュートとアディクションの話。
アディクションとパーソナリティ障害の話。それをどうするかっていうような話。
大体この3本。3本目はどちらかというとこういうテーマというよりは、個別の皆様の参加者さんの事例に合わせてお話したいというふうに思っておりますが、
いずれにしても30日までに早終わりを用意させていただきました。
通常1万5千円のところ3時間なので、1万円で9月30日までにお申し込みいただければ1万円という格好にしてみましたので、
これはどういうことかというと、その日を過ぎるとキャンセル料が発生するんですよ。会場費。
だからこの日までゼロだったらもう一旦ちょっとやめようかなみたいな、分かんないですよ。やるかもしれないですけど。
分かんないけど、ちょっとそこら辺を考えております。
そこで話すようなことはそれでいいとして、
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ここを3日話してきたことは、ずっとベータ要素とか原格とか東映ドイツ化の話をわんさかやってきたと思うんですけど、
これが直接関係ある方というのは、聞いてる方の中でもそんなに多くはないかなと私は思っているんですね。
ただ私はここも本当に難しいところで、
アトピーにベータ要素を当ててみたのが、私の実感としては間違っちゃいないと思うんですけど、
あくまでもそういう力動的に無理に見たいなら見たいんだけど、私は。
東映ドイツ化でしょうと言われれば、それはそうかもしれない。
一応それは身体というのは現実のものだと分かってるわけですからね。
私が問題にしてるのは痒みの方で、痒みは実態がないと思うんですけどね。
ただ身体だから痒みなんじゃんって言われればそうなんで、原格とは言えないじゃないかって言われると、まあそうなんで。
ただですね、いわゆる機械な対象ってやつ、ビザレオブジェクトってやつは、なんか原格用って言えばいいのかな、やっぱり原格じゃないですか。
例えばATMが私を見張ってますとかっていうのは非常に原格的ですよね。
東映かもしれないけど、普通の人はそこまで東映で、ATM俺見張ってるみたいに思わないじゃないですか。
恐怖と不安が非常に強いと思うんですけど、どこかやっぱりですね、現実と非現実の精神病部分の優勢というものがすごいと思うんですね、その状態は。
単にスプリットした悪いものをただただ東映するだけでは、人ならわかりますよ、人なら。
別に敵意を持っていない人なのに、いやいやもうあの人本当に私のことを悪口ばっかり言ってみたいなのは、
でもこれもやっぱりだから難しいんですよ、そこを完全に切り分けるわけにはいかないと思うんだけど、
たぶんビザレオブジェクトって言われてるものは、僕はやっぱり機械な対象と呼ばれてるものはほぼ原格だと思うんですね。
悪口言ってる人とかなら、まだ客観性が多少あると思うんですよ。
他に一緒に聞いてる人は、そうだね、あの人ちょっとねみたいなのあると思うんだけど、
ATMはないと思うんですよね。いや、あのATM確かに見張ってるっぽいよねみたいなことをみんなで言い出すってことはちょっと、
それはちょっとですね、陰謀的すぎるって感じがするんですよね。
で、でも、私のこの肌と痒みは縁がないわけじゃないっていうことをここではちょっと考えてるわけですが、
なんかね、ATMが見張ってるってのはでもなんかちょっとわかる気もするじゃないですか。
これがね、えーとそうだな、なんだろうな、あるからやっぱり難しいんだけど、
でも見張るのはATMとかだからな気がやっぱするんですよね。
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なんかね、モノホシザオが見張ってるって人はあんま言わないような気がするんですよ。
わかんないですけどね。あの、例えば、なんか、でもそうじゃない。
やっぱりこう、例えばですけど、ウェブカメラが私を見張ってるスパイの何とかなんだっていうのはまだわかる感じがするんですよ。
だからあのウェブカメラ壊しちゃったの?みたいなのは、ちょっとあれだなとは思うけどわかる気がする。
これが大腹筋が私を見張ってますっていう人ってやっぱ、たとえ統合失調の人でも言わない感じがするんですね。
だから防衛っぽさってあると思うんですよ、幻覚だとしてもね。
これはあの藤山直樹さんが書いていた、赤ちゃんは何にも知らないかもしれないが指には吸い付く。
おっぱいにも吸い付く。でもボールペンには吸い付かないんだよっていうのとちょっと似てる気がするんですよね。
0歳、0日の子だって、1日か、の子だってそうだと思うんですよ。
どっかやっぱりわかってるところがある感じってあって、何にもわかってないって言ってもやっぱり何かわかってる感じってあるんですよね。
だからましてその大人の統合失調の方となってくると、それは幻覚はあるいは幻覚用のものは見てるかもしれませんが、
そこに投影的な、つまり現実を全く考慮に入れてないって感じは全然やっぱりしないですよね。
やっぱり何かそこには了解し難いものはあるけれども、何かこう理解できなくもない話の方が、
私が接している半径が狭いってことは当然あるにせよ。
やっぱり上の階の人が私のことを噂しているとかいうのはしてないんだけど、でも何か話としてはわかるみたいな。
これがなんつうんですかね、やっぱりうちの会員の集まっている犬家たちが私の噂話をしているとはあんまり言わないわけですよ。
幻覚だったら何でもあるわけなんだけど、何でもはない気がするんですよね。
そこはどっかちょっとやっぱり投影的な感じ、膨大な投影というんでも説明はできそうな感じというのが、
ここ頑張って区分けする理由はないんですよ、本当だったらね。
専門家だったら別だけど、私は素人なんで、素人だから分けたくなる部分もあるんですよ。
分かりにくい話だからね、分かりにくいものは分けたくなります。
だけれどもパッと感じたところでは、その重度のパーソナリティ障害と精神病を分けるっていうか、
やっぱりそこのところって似た話がいっぱい出てくるんだなみたいな、これはDSMでも思ったんですけれども、
アメリカで異常心理学、アブノーマルサイコロジーというのを習うんですよ。
パーソナリティサイコロジーもやるんですけど、そういうのをやっているところで、
妄想性の話、荘極性の話、9世紀の統合失調の話みたいなのは似たところいっぱいありますよね。
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どうしたってね、と思うんですよ。
そこを頑張って分けるのが大事なのが分かるんだけど、
結局のところ現実の私が日常で触れる範囲では、触れると仮にしてもですね、そこを頑張らなくて難しいんですよね。
それは本当にね、そこは本当に難しい。
考え方と対応を変えていくことになりますからね。
ちょっとタスクシュートの話に、ここで飛ばしたいわけなんですけど、
昨日ね、タスクシュートのことについて話し込んでたんですよ。
私にとってこの種の話し込みっていうのは非常に色々と得るところが大きくて、
付き合わされる方はまた迷うかもしれないですけど、
喋ってる方、私としてはですね、ここですごく考えが入っていけるっていうのがあって、
昨日ロキソニンの話とタスクシュート、Xにも投稿しましたけどね、
このロキソニンに例えるのいいなって思ったんですよ。
酒に例えてしまうと、かけ離れてるだけでなく、好きで飲んでる感が強く出ちゃうんですよね。
ファンザに例えるのは少しおかしいんですよね。似てなさすぎるっていう。
だけどロキソニンとなってくると近づいてくるんですよ、かなり。
つまりロキソニンって多分快楽を求めて飲む人はいるかもしれませんが、オーバードーツ的に。
すげー少ないと思うんですよね、すごい少ないと思うんですよ。
ロキソニンはやっぱり痛みを取る。
だけどこの快、これは結局不快を取るだけなんだけど、この快はでかいんですよ、人間にとって。
人間は私はスイーツより鎮痛剤の方が切実に求めると思うんですね。
まず痛み取りますよね。
やむを得ず甘いもので痛みを誤魔化すってことあるにしても、やっぱり痛みを取りたいわけですよ。
これがタスクシュートの有効性を発揮する時に起こる現象なんですよね。
だから時間切迫感って言うんですけど心理学的には。
時間に覆われてるあの辛さ、この辛さが人によって違うんですよ、当然ね。
辛いなっていうのが取れる、頭痛が辛いなっていうのが取れる。
この取れるに快を覚えて、で、時間に辛くなったらタスクシュートを見ればいいんだ。
つまり頭が痛くなってきたらロキソニン飲めばいいんだってなるから、
それを依存症とは必ずしも言わないんだけど、これがちょっと痛くなったらすぐ飲む、ちょっと痛くなったらすぐ飲む。
結局のところは頻度の問題になってくるわけですよ。
常動行動って言っても、例えば毎日1杯コーヒー飲みますっていうのを常動行動ってはあんまり言わないわけですよ。
ましてそれを依存症とは言わない。
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分からないんですけどね、結局のところ。
分からないんだけど、やっぱり1日5杯ずつ、寝ても覚めても飲んでますみたいな、
6杯から10杯の間で多分、いわゆる中毒性な何かが出てくる。
気持ち悪くなってきたり、ものすごく体が痛くなったりきたりするっていうケースが出てくるのはその辺なんですよ、カフェインの量としては。
普通やちょっとない量ですね。
1日6杯毎日飲むとなってくると、お腹の具合と関係なくひたすらコーヒー飲んでる感じになりますからね。
とはいえ毎日1杯飲むなんて常動、同じ行動を繰り返すという意味ではそうなんだけど、
やっぱり常動感はすごい少ないと思うんですよね。
それを常動行動とは言わない感じがしますね、あんまり。
で、タスク仕事の場合、主力主義を見てますから。
確かにそれは依存的な雰囲気って出てくるんだけど、
なんて言えばいいのかな、タスク仕事の場合、見ただけでは消えないんですよ。
やっぱり僕はそのアディクションとか依存のもう一つの大事なポイントは、
あまりにも簡単にやるだけだったらできてしまう。
ロキドニーなら飲めば済んじゃう。
タバコもそうじゃないですか。吸ってるだけじゃないですか。
ここに努力がゼロとは言わないまでも、やっぱり努力とは言わないと思うんですよね、ああいうのね。
タスク仕事っていうのは、ただ見るだけってことはほとんどないんですよ。
実際には辛いってなって見るっていうことをやるとなんかするんですよね。
このなんかするは結構行動としてのエネルギーがかかってくるので、
必要なので、負担があるので、やっぱり依存的にはなりにくいんですよ。
このやっぱ負担があるってのが違うんだろうなと。
負担があってもアディクションっぽくなるケースは多々ありますよ、痛みが。
だから身体にかかってくるだけでも、ランナーズ範囲だから走ることが常動行動になり、
ランニング依存になりましたってのはあんまり言わない気がするんですよね。
そこには何かのすごく楽なところがあると思うんですよ。
やっぱり楽ができてるっていうこと。
タスク仕事は楽そのものはできないんであれは。
見るだけだったら楽ですよ。
だからタスク仕事を見る依存とかになる人いるのかもしれないけど、
まあならないと思うんですよね、僕は。
見ただけじゃストレス解消はされませんからやっぱり。
ここのところに要するに関係のないことをすればするほど、
それは依存っぽくはなっていくし、
要はハームの問題だっていうのはここに僕はすごく思うんですね。
ハームリダクションっていうじゃないですか、やっぱり。
外位の問題なんですよ。
タスク仕事を見て仮にタスク仕事が私癖的になったとしても、
タスク仕事を見て仕事してストレスが解消されますっていうのはめちゃくちゃ真っ当なんですよ。
ここにハームがないんですね。
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だからこれをリダクションする理由がないんですよ。
リダクションしなきゃなと思うから、
この行動を減らさなきゃなと思うから、
実績がさらに追加されて事態が混迷し始める、
そういうことなんですよね。
なんでこの話を今したかというとですね、
ここに新しいというか新しい展開ではないんだけど、
昨日から繰り返している幻覚、幻想って問題はですね、
次に必ず欲打つっていう事態を引き起こすんですね。
さっき言いましたね、
自責と欲打つはものすごい近い親戚、
ないし双子みたいなところがありますんで、
自責すなわち欲打つと言ってもいいぐらい、
自責と欲打つは正確にはイコールじゃないんですけれども、
やっぱりそういう感じのものなんですよ。
なんで、なんでっていうか、
ハームがあるから自責するんだけれども、
幻想っていうのは結局否認なんですよ。
しかし幻想で否認したところで、
実自体は少しも否認されていないという、
ワーソンブレスポジションというのの面白いところは、
これはやっぱり幼児の発想であって、
お母さんがいないからいることにするとかいうことをしてもですね、
何の対策にもなってない。
心理的対策なんだけど、
心理的対策は非常にその子の成長を表していますが、
やっぱり私の彼女でもいいんだけど、
彼女がいないからアダルトビデオを借りてくるっていうのは、
理屈にあっているんだけれども、
現実はそれを否定してくるわけですよ。
いや、お前いないからねみたいな。
いないこと分かれよみたいな感じで迫ってくる。
これがつまり押し付けられる悲哀ってやつなんですよね。
押し付けられる罪悪って言ってもいいんだけど、
罪悪も押し付けられるじゃないですか、一緒に。
ひもて的な人間の心象なんだと僕は思うんですけど、
いないからねって押し付けられると、
いやお前は本当にクズみたいな男だからいないんだよみたいに、
すぐなるんで思考は。
ほぼこれはワンセットなんですよ。
いないということを知った瞬間に、
自分が男として80億はいないか、
40億の男の最下位みたいな感覚。
ものすごい絶望的な罪悪感を持つんですよ、自分に対して。
あそこから自傷に走る人が絶えないのがよく分かる。
僕はそこで自傷には走らないタイプなんだけど、
めっちゃ自傷したくなりますよね。
こんな風に生まれてきたからみたいな。
これが罪悪感なんですよ。
だからいない悲哀を精神にかかる、
空想上の女の子みたいなものを横に置いてしまって、
これがいないことに気づくと、
めっちゃ自分がこの罪悪感から逃れたいから
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彼女を作りたいっていう心理に切り替わってるんですよ、中は。
彼女さえできれば、
自分のくずっぷりから脱出できる証明ができますみたいなね。
そういうセックスがついてくるわけじゃないですか。
セックスさせてくれた女の子がいるっていうことですよ。
これが自分のダメじゃない証明書みたいに感じられてくるんですよ。
これ絶対モテませんよね、これやったら。
だって女の子側からすると、
その証明書代わりに自分になるの嫌じゃないですか。
それは分かるんだけども、分かりたくないんですよね。
自分の罪悪感が強すぎて。
罪悪感っていうのかな、
自分の楽園感なんですよね。楽園を押されてる気がするんですよ。
日文字ってあるじゃないですか。
日文字のもっとダメダメ男ぶりみたいな感じなんですよね。
同じようなものですけどね、はっきり言ってね。
あの日文字を取りたいから彼女が欲しいみたいな、
そういう理屈が入ってるんですよね。
でもこれは明らかにパーソナリティ障害に近いです。
現実見当は失ってませんよね、まだね。
非常に言ってることが非現実的に聞こえると思うんですけれども、
でも彼女がいないってことは分かってますからね。
まだ彼女が岸を人化してませんから。
なんか被害が酷すぎて、
なんかこう化け物に追われてるような感覚にはまだなっていないんで。
あくまでも理想の彼女を作ってるっていうのは分かってますからね。
アダルトビデオも同じ。
それは空想上の存在であるということが分かってますから。
あれは誰が見ても同じように見えるはず。
誰が見ても俺の彼女になってしまうという意味で、
自分の彼女じゃないんですよ。
ということは分かってやってますからね。
これを積極的排出と言いましたね。
この排出って言葉は僕は、
他に言葉があればそれで代替してもいいんですけど、
投影同一化とか排出っていうのは、
私たちが精神力道から、精神分析から学べる、
2つの数、いくつかあるうちの最大級に重要な言葉だと僕は思います。
特にコミュ障とかいう言葉が出回ってしまって、
世の中で人間関係で苦労するって方はですね、
この2つは抑えておくと絶対いいって私は思うんですよ。
排出と投影同一化ですよ。
排出ってのは結局外に出すわけ。
自分が抱えておけないから外に出すんですよ。
基礎人みたいなものもある意味排出のよくできたバージョンなんですよ。
頭痛を抱え込めないわけじゃないですか。
頭痛って抱え込むことできますよね。
頭が痛い、我慢するっていうのは抱え込むわけですけれども、
これが頭痛を抱え込みたくない現代人はこれを消去してしまうわけ。
消去できる薬があるからすごく事態はスムーズに進むんだけれども、
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消去するものがないのに排出したくなると、
頭が痛いのは低気圧のせいだみたいになるわけ。
これが排出ですよ。外に出しました。
悪い部分を外に出すんです。
この排出を僕らはありとあらゆるところでやってて、
これを会話の中に盛り込むと人間関係がその分少し狂うんですよ。
だって排出されるのってされた側はかなり嫌ですからね。
例えば朝、すっごい眠いご夫婦が起きてきたとするじゃないですか。
男の方がトイレ行って便器のフタを下げなかったっていうのをすごく
苦々しく思っている奥さんがいらっしゃるとするじゃないですか。
この奥さんは便器のフタが開いていたとしても、
すごいぐっすり寝てすっきりしたときは腹は立たないですよ。
でもこの朝6時とかに起きて、もうほんと絶対起きたくないわっていうときに起きて、
心に余裕が全然ないときは開いてるのを見て、また開けてるって絶対起こるわけですよ。
これが排出です。
何が排出かというと、自分の不快感を外に出すんですよ。
自分の不快というものが耐えられるんだけど、耐えられないと思ってるから、
それを外に出して、あなたがフタを開けてるから私は不快になった。
ほんとは違うんですよ。起きた瞬間にすでに不快になってるんだけれども、
開けてるから不快になった。
兵器圧が来たから頭が痛くなったってことにすることで、
痛みが少し減ると思っているんですね。
これが排出です。
これも毎秒起きてますね、世の中ではね。
これが排出だって気づいたら、この排出をまた開けてるって言われると、
今度排出されたほうがぶつけられるわけですね。
これに対して即座に言い返すということは、ボールを投げ返すってことですよ。
この投げ返しを止めることができれば、コミュ障は解決します。
僕の経験では10中10解決します。
ここで相手に投げ返すって分かりますからね。
投げ返したっていうことが腹が立ったってことなんだけれども、
投げ返せなくていいっていう部分があるのは分かってるんですよ、心の中で。
でも反射的に投げ返すっていうのは、自分の心が相当余裕を失ってる時です。
一旦間を置いてから、ちょっと違う言葉を投げ返すと嫌味になります。
これを、嫌味のほうがだからマシなんだけども、多くの場合。
一旦置くことができるってことは、その排出された怒りを取っておくスペースはあるって意味なんですよ。
このスペースを使ってコンテインする。
つまり、排出されたボールは、怒りのボールは、相手の深いコンテナ、コンテインドなんですけれども、
それを自分の心のコンテナで、自分の心に収めて何とかするというのがコミュニケーションするってことです。
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何にも言わなくてもコミュニケーションはできます。
何にも言わないのが、ある種の沈黙の怒りになってしまうと、これは投げ返してるのと同じになるんですけど、
それでもね、嫌味言うよりはさらに進んでる感じがするんですよ。
少しマシになって。
こういうのが全部コミュニケーションなんですよ。
これを反射的にやるとか、あと、自分が抱え込むんだけど、それ故にすぐ欲打つになってしまうっていうのも避けなきゃならない。
これ難しいんですよ、結構。
それもコミュニケーションの一環ですね。
欲打つになるのもコミュニケーションだけど、欲打つにならずに頑張るという、これが最終目標ですけどね。
これがコミュニケーションだと思うんですね。
コミュニケーションっていうのは喋ることではないんですよ。
で、この時に欲打つが出てくるわけ。
つまり、欲打つというのは、抱え込めないものを抱え込むことだと思うんですね。
で、抱え込めません。
全然抱え込めないんで、完全にそれが外から自分に入ることを拒絶して、外に置いちゃいました。
これが幻覚でした。
つまり、蓋閉めてよって言われて、その意味がわかった瞬間に、もうある程度コミュニケーション能力は達成しているし、最低でも妄想分裂ポジションまではいけてるって感じがあるんですね。
妄想分裂ポジションのごく初期の団体なんですよ。
β要素のまま置き、外に置いちゃうという。
もうだから蓋閉めてよという言葉が意味がわかんなくなってるんですよ。
蓋閉めてよがチーフォジンからの呪いの呪詛みたいに聞こえてきたら、それはもう幻覚ですから。
意味がわかってないからね。
これは赤ちゃんにとっての自分に対する迫害なんで、完全に幻覚用の世界になってる。
まずこれはないと。
蓋閉めてよの意味はわかるじゃないですか。
わかった瞬間にもう妄想分裂ポジションには入ってるんですよ。
これは妄想分裂ポジションっていうのは、ある種の成長ですからね。
子供なりの成長戦略なんで。
妄想分裂ポジションに入った。
もっと優しい奥さんだったらよかったのに、ほら奥さん作ったじゃないですか、空想で。
よかったのにってことはそうじゃないってことを知ってるってことですよね。
これは現実だってことがわかってるってことですよね。
だから蓋を閉めろって言われたということは、幻覚じゃないわけです。
ここでもうすでに一段落来てるわけです。
ここから欲打つポジションに僕らは入っていきます。
なんでこんな人と結婚しちゃったんだろうという欲打つね。
それは行き過ぎな感じもしますけれども。
それで、いやだったらもう離婚しようかって言ったら、これは想的防衛ですね。
ここは相当微妙で、全然欲打つポジションっぽさがないんですけれども、
それでも何か会話はしてますからね、それでもね、まだ。
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打つってのは欲打つじゃなくて、打つ病って言われてるものには3種あることに一応なってんですよね。
これ僕習いはしたんだけど、正直これを分ける意味がよく分かってなかったんですよ。
これも松木さんの素材論を読んで分かるようになりました。
完全に分かってないんだけど、なんとなく分かるようになりました。
今の文脈でですね、結局打つになるためには何かを失う。
普通はそうなんですね。
失った場合に起きることが2種類ありますね。
1つは自分のコンテナが壊れてしまう。
これはもう大問題です。
つまりほとんど死後陣復活です。
せっかく欲打つポジションを確立したにもかかわらずですね。
結局打つっていうのは一応欲打つポジションとの絡みなんで、
欲打つポジションできましたという感じで、
奥様からのふたしメロウみたいなのも抱えられるようになりました。
言葉の意味も分かります。
抱え込めます。何なら言い返さないで頑張れますみたいな。
これが欲打つポジションじゃないですか。
私この人と結婚したんだからな。
こういう人とでも一緒にやっていこうよみたいなのが欲打つポジションですよね。
これを悪害感持たずにいけるようになるとワークスルーって感じになるんだけど、
いずれにしても抱え込めるようになりました。
抱え込めますよね、いくらかならば。
ただ現代はこれを抱え込まずに済む様々な技術とか薬とかが発達しているので、
抱え込む力が僕らが昔の人に比べて弱いと言われると、
僕はそういうのに簡単に同意する気はありませんけれども、
弱いと言われると麻酔とかね、やっぱり大事ですよね。
昔の人の方が歯の治療とかをほとんど何の麻酔もなしにやってたとすると、
すげえとは思うんですけれども、やっぱり僕はちょっと耐えられそうにないから、
そういう意味では抱え込める力はいろんなところで低下しているのかもしれないです。
恵まれているというのはそういうことを言いますよね、現代的に言えばね。
でもまあ抱え込む力はあるから、よくつポジションは一応持っているというか確立している。
それは確実に確立していると思うんですよ。
だけど私が、例えば、ホイールのフタ問題から進行した喧嘩が猛烈になってしまい、
なんか奥さんがすごい勢いで出ていっちゃったら交通事故になっちゃいました。
めちゃくちゃ喪失感がありますね、こういう時は。
親子喧嘩でもいいですよ。
この喪失がもう全く自分の中では受け入れられなくなった。
受け入れられないっていうことすらできなくなった。
受け入れられないって言ってるってことは受け入れてる部分があるわけですよ。
現実だってことがわかってるんで。
だけどもう現実だということがわからなくなってしまった。
つまり成立させた心のコンテナーというやつを壊れてしまうわけです。
30:04
しばしばそういうことがあります。
よく少女漫画とかでこのテーマは悲劇の何かですね。
悲劇によって精神のバランスが壊れてしまうみたいなやつですよ。
非常にわかりやすいやつ。
失ったものがデカすぎて現実認識が事実上一時的にかもしれないけど崩壊してしまう。
これを精神病性うつって言うんですね。
うつの中では一番深刻かつ世の中ではよく知られているケースなんじゃないかと。
これは失ったものの大きさを客観的に測れるわけではないと思うんですよね。
失ったものがペットだとしてもこうなるケースってあり得ると思うんですよ。
だって可愛がり方は人によって全然違うんで。
私は目高がなくなったからといって精神病性うつになるというには程遠いです。目高には悪いけど。
なんならものすごく頑張って育てているトマトが台風6号で全滅しても精神病性うつとかにはなりません。
抑鬱的にはなりますよ多少はね。
でもやっぱ精神病性うつというのはこれがもう否認してしまう。完全に否認してしまう。
だから私の娘はまだ死んでなんかいない。
あのよくそういうやっぱり少女漫画ですよね。
なんかこう白骨の頭蓋骨を抱いている女の人みたいな。
彼はまだ生きているのよみたいなこれ。これが精神病性のうつですね。
これ旧世紀の統合失調症とは違うのかなって思うんだけど、気合い感が強いから違うのかなって感じはしますね。
そしてものすごく迫害的になっているという点では旧世紀の統合失調の話と似てきているなっていう。
あの日この時はなんかこんなことを言われなければみたいなことが脈絡もなく大量にあるじゃないですか。
例えばあの時私がトイレの蓋を閉めていればみたいなこういうギャグにしてはいけないんだけど。
そういう関係ないことを無理やり関係づけている意味で関係念力っぽさはありますが、
いずれにしてもこれを精神病性のうつと言って、結局のところ私たちは現実をあらゆる意味で否認すると正気を失うんですよ。
赤ちゃんの本当に6ヶ月ですらお母さんがいないという現実をどこかで受け入れ始めるからこそいいおっぱいを作り出すんですよ。
これすら崩壊してしまった時に悪いおっぱい一遍倒の世界になってしまう。
つまりそんなものは現実には外在は絶対しないはずなのにそれを外在させてしまう。
自分の知覚の中で悪いおっぱいが襲ってくるということが実話になってしまうという。
これがサイキックリアリティですね。
心的現実。
この精神病性うつっていうのと比較すると、マイルドといえばマイルドなんだけど、
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この積極的に排出するというやつがあるわけですね。
つまり受け入れられないという風に言うやつですね。
受け入れられないということは受け入れてるんですよ。
それは辛いんだけれども受け入れてる。
いわゆる心のコンテナーはこの辛さを抱えておけないから排出しますっていうことなんだけど、
抱えておけないから外に出すということは抱える器はまだ残ってるわけです。
壊れてはいない。
ここに精神病性であるかそれともパーソナリティ障害であるかの多分水準の分岐点があるんですね。
この2つ目の意味が私わからなかったんですよね。
最初習った時、あるいは最初いくつかの本で読んだ時、精神病性のものと分ける理由がよくわからなかったのと、
どう分けてるのかもそもそもよくわからなかった。
コンテナーという概念が多分その時習ってないせいなんですよ。
心のコンテナーと言って初めて心が壊れるみたいなこと言うじゃないですか。
心を何かこうそういう抽象的な器みたいなものに捉えてみて、壊れてるか壊れてないかで分けてるわけですね。
壊れてなければ現実と心は違う。心の世界と現実の世界は違うということがわかるから現実検討式は機能する。
壊れてしまうとそれが機能しなくなる。
この辺の話が昨日おととい散々言ってたベータ要素って話と多分間違いなく絡んでると思うんですよ。
で、排出するということはやっぱり自分の心あるわけじゃないですか。
だから排出ができるわけで。
排出するというのは周りから見ると非常に問題があると思うんだけれども、
例えば何でもいいんですよ本当に。
でもやっぱり対象喪失だから失うということが重要だと思うんですよね。
例えばですね、会社で自分の理想の働き方ができる自分のアイデンティティみたいなのを失うっていうのがよく排出の対象になってるなって感じがするんですけれども、
私で言えばそうですね、本が出せると思ってたのに出せなくなりました。
ショックじゃないですか。
だけどこれ出せなくなりましたって言われたからと言って心が壊れてしまって、
いや本、出した本あるからとか言って、
出してもいない本のことの、
本出してもいないのになんか店頭に並んでるよみたいなことを僕は言い出すようにはならない気がするんですね。
でも出せなくなりましたってことになると、
例えばお金も入ってこないし、いろいろと思うところがあるわけですよ。
これで私が、いやあの編集本当ないわとかって言うじゃないですか。
普通に言うと思われるかもしれないですけど、これは排出ですよね。
ないわっていうことによって、
なんか私が得るものがあるかっていうと何にもないわけですよ。
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でも言わずにはいられないわけですね。
それは人間としてできすぎてるとかそういうふうに言われるかもしれないんだけど、
ことはそういうことじゃないと思う。
あの編集のせいでなくなったっていうのが事実かどうかっていう問題もあるんだけど、
事実だとしても意味のないことを喋ってるわけですよ。
俗に愚痴を吐くってやつもそうなのかもしれないけど、
とにかくこう、排出せずにはいられない感情というものがここにあって、
それは抱えておくとどうも心がどうかなってしまいそうだっていうこととの兼ね合いなんですよ、これは。
どう考えたって言っても黙ってても同じですよ。
本出ないもん。
ことは本が出ないってことでしょ。
本が出ない、つまりないってことですよね。
本が出ないというのはないってことなんですよ。
私が出すべき本がそこ、外在はできない、ないということ。
何も悪いことが私を襲ってきてはいないんですね。
ここが微妙だって思われるかもしれないんだけど、
それは僕らがやっぱり悪いものとないものを分けられないってことだと思うんですよね。
ないものは悪いものがあるのとは違うんですよ。
それが私を襲ってきたり、私を困らせたりはできないんですよ。
ないんだから。
ないものは私を攻撃できないんですよ。
なんだけれども私は迫害的にそれを感じる。
積極的に排出する。
あの編集ないわと。
あんな編集と関わってしまったからこういうことになってしまったんだっていう風に考える。
そうして一時的に元気になろうとするんだけど、
でも本出てないよねっていう現実にすぐ、
さっきのあの彼女いないよねと何もこれは自体は変わってないわけですね。
そうすると責められてる気がする。
で、罪悪感を抱くか、誰かに罪悪感を抱かせようとするかのどっちかが始まっちゃうわけですね。
罪悪感を抱かせようとするっていうのがあの編集ないわってやつで、
罪悪感を持つっていうのが、でもやっぱりもっと気をつけておけばよかった。
なんで俺気をつけなかったんだろうとか、
そもそも自分がもっと売れっ子だったらとかって自分を責め出すわけですね。
これは押し付けられた罪悪感というやつで、
これがパーソナリティ障害ラインにおける欲打つで、
これが重症になってくるのがパーソナリティ障害ラインにおける恐らく鬱病なんですよね。
精神病性の鬱病とは確かにこれは違いますよね。
どっか正気ですよね、明らかに。
いやここまで来て本出せないっていうのは受け入れられませんとか言ってるわけですけど、
それは受け入れちゃってるわけですよね、ある意味。
だってそんなこといくら言ったって本出ないんで、この種の状況に入った時はですね。
だから自分に彼女がいないっていうのはもう今の状況じゃ受け入れられないって言っていても、
それはいないことがわかってるっていうことなんですよ。
受け入れてるんですよ。
本当に受け入れられなくなった時は、そういう表現だけでは進まなくなる。
という話ですね。
もう一個あるんですよ。
これがね、よくわかんなかったんですよね、これもね。
いや、よくわかったんですけど、内因性鬱ってよく俗に聞くことあるかもしれませんけど、これなんですね。
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内因性鬱って言われてるやつっていうのは、僕はそう鬱だろうなってよく思うんですね。
つまり万能感が崩れた時に万能的に鬱になってしまうんですよ。
これはですね、今の話との兼ね合いがあると思うんですけれども、
さっきの私のやっぱり彼女がいなかった問題とよく似てますね。
万能的にいろんなものを作り出してしまって、その世界に住もうとすると、
それが成立しないんだってなった時に、万能的に自分はダメ人間だって思うんで、絶望的なわけです。
だって万能的にダメってことになってしまうと、宇宙最悪の存在みたいになっちゃうんじゃないですか。
このジェットコースターみたいな世界に生きてるんですよ。
だから、僕自身にあんまり直接関係ないケースが多いんですけれども、
この難易性の鬱の人っていうのはですね、
ウリを割るの一環に出てきた女の人がそういう雰囲気がありましたね。
私はすごいみたいな感じなんですよ。私は正しいみたいな感じなんですよ。
こういう人が、いやあなたはどっからどう見ても間違ってますねみたいな、
今県知事さんがそういう状態にあるような日がちょっと心配なんですけどね。
心配してる人は少ないかもしれませんけれども、
私はもうたとえ、あのね、
県議会が100対0で私が間違ってると言われても私正しいですから。
なんて言えばいいのかな。硬直しているって言うんですけどね。
硬すぎますよね。あまりにも。
融通が効かないというか柔軟性がないというか、
どこか人間らし、人間臭さみたいなものが失われている感じがあります。
そういうこう、なんて言うんですかね。
ここで長時間って言葉を出したくなるんだけど、
要するにこう、自分の万能的正義感みたいなものがあって、
これが思想的な状態を常に維持しようとするんですね。
これはですね、私欲打つポジションだと思うんだけれども、
なんか実に独特の欲打つポジションの確立の仕方なんですよね。
あの妄想分裂ポジションそのものって感じなんだけど、
でもある意味社会的地位がある程度あったりするわけだから、
現実感がないとも、現実認識を欠いているとも言えないわけですよ。
ちゃんと運転できる、ちゃんと勉強できる、ちゃんと行政法がわかる。
でもなんか不思議な万能感というものが、で生きているところがあるわけですね。
これはこの種の人がこの万能感が崩れると、
万能的に猛烈な打つに見舞われるので、
相打つという言葉が非常に当たっている感じがするんですね。
これを難易性打つって言ってたものと僕は近いんじゃないかなというか、
相打つと難易性打つっていうのはしょっちゅう同じところで記述されているんで、
そういうことなんではないかと思うんですね。
やっぱ有利をあるの一環の女性の厳しめの社員がね、
42:05
君さもうそんなことじゃやっていけないよみたいなことを言って、
そして私はバリバリ仕事をするみたいなね、絶対的な正しさというものを持っていて、
すごく迫害的な世界にも生きているわけですよ。
自分絶対に正しいんで、大体周りの人は無能だしバカだし、
しかも悪賢しこさだけはあるしで、ロクネンスじゃないわけですよ。
周りの人はみんな大体的なんですよ。
懲罰対象なわけですね。
それだけ自分が正しい有能だっていう世界に生きてるんで、
これが崩れると大変なことが起こるわけです。
これが崩れるということは今までの私は全て間違っていたのかみたいになるんで、
ある意味死んじゃいかねないみたいなところがありますよね。
これは欲打つポジションを確立しておきながら、何か大切なものを失ったというのではないし、
失ったことが受け入れられないとかいうのでもないので、
非常に異なるタイプの打つって感じがあります。
ただ一方でウリオワールがそうだったけど、
あの人は彼氏を失いそうになった瞬間に自分の万能感が崩れ去っていくっていうのに書かれていたんで、
これは並行して起きることもたったんありますよね。
自分のある種のアイデンティティが何かを失うことによって、
万能的なアイデンティティが一気に崩れ去るっていう状態が起きると。
だから失うということと無関係でないこともしばしばありますね。
だからこの3者は精神病性のもパーソナリティのも内院性のも、
3者は相互に関係していると思うんです。
途中お話をちらっとしたのはもう皆さんお忘れかもしれませんけど、
タスクシュートの時間がないってやつね。
タスクシュートを見てお前はどうしてストレスが解消できるのかというとですね、
やっぱりこの極めてマイルドな形でありながらもですね、
失うということを恐れていたってことなんですよ、私が。
でもいろんな意味で信用を失うとかね、そういうものを非常に恐れていたと思うんですよ。
で、失うことに耐えられないという心象が、やっぱりこの抑鬱に対する恐れなわけですよ。
頭痛に耐えられないからロキソニンを飲むっていうのも、結局耐えられないってことなんですよ、痛みに。
痛みという実態がないようであるような、無視はできない、
つまり押し付けられている感じが絶対すると思うんですよ、痛みってものはですね。
特にそれが原因がよくわからない頭痛のようなものであると、押し付けられている感が半端ないと思うんですよ。
私悪くないのにこの痛みを頭の中に挿入されてきている。
これはやっぱり迫害妄想的な世界なんですよ。
痛みはもちろんありますよ、でもそこに追加されている苦しみがあるってことなんですよ、迫害妄想的に。
迫害されている感じっていうのがあると思う。
β要素のらしさがそこにあると思う。
45:02
頭痛って本当に頭が痛いのかどうかすらはっきりしないじゃないですか。
あれMRIとかで調べても、このやつが悪さをして、この血流のなんかちょっと悪さをして、
頭の神経を圧迫してますねとかがないんですよね、頭痛みたいなものって。
すごい困りますよね、扱いに困る。
だから神経そのものを麻痺させるみたいな作戦を取るしかないんだけれども、
これはすごく押し付けられている感が出てしまうと。
時間切迫感も同じなんですよ。
結局締め切りってものは勝手に設定されるものだし、勝手に設定されない限りこれは締め切りじゃないんで。
外から押し付けられているって感じが足りなくなってくるとね、あるわけですよね。
これを何とかしたいなと思った時、まず僕らがやろうとするのは排出なんですね、排出。
ロキソニン飲んで痛みを排出してしまう、外に追い出してしまう。
もうなくなりました、さよならって感じなわけですよ。
時間切迫感も同じなんですよ、できればね。
無くしてしまいたい。
で、酒飲んで頭を麻痺させて、なかったことにする。
これがだから良いおっぱい、悪いおっぱいの応用形みたいなやり方なんだけど。
私はタスクシュートを見た時に、これで間に合うみたいな感じをパッと得るんですね。
そうすることでストレスを排除しつつ、実際にそれをやり始めるってことが、
うまくできるとうまく回り始めて、さっきまであったストレスは、はいさよならみたいに持っていくことができると。
こういうことをやっているのは、やっぱりこの欲打ちというものを恐れての話なんですよ。
何かを失いたくない。
このまま何か下手を打って、何かを失ってしまいたくないと思うから、
あれを見ることで、その失うことを未然に防ぎつつ、自分の欲打ち状態というものを未然に防ぐ。
結局これは心がコンテインできていないってことなんですよね。
何らかの形で心がコンテインする機能を、少なくとも半分くらい。
機能の100%機能するところを50%で済ませたいみたいな。
コンテインで何とかするというのは結構大変だってことなんですよ。
ところがここが幻想で、私今タスクシュートなくても全然困らないっていうのは、
実はこのコンテインで機能させて心の苦しみというものを扱うっていうのは、
全然不可能とか難しいってことではない。
まして、ここが何とも言えないんですよね。
何が何とも言えないかというと、100%機能させれば大概のことは何とでもなるんだけど、
100%って何よって言われるとめちゃくちゃ困る。
100%とは現実原則ですとしか言いようがないんですよ。
私は現実に存在し、現実的に機能することができるんです。
だって結局タスクシュートでやることってそうでしょ。
48:02
原稿が書けばいいんですって書いてあって、
ああわかったって言ってストレスをリダクションして原稿を書くわけですよ。
だったら見ずに原稿を書いても同じじゃないですか。
なぜ自分の心のコンテインの機能をそう低く見積もっているのかってことが、
最終的なポイントになってくると思うんですね。
実際のところ、彼女はいないであれ、
締め切りまでの原稿の締め切りがないであれ、
本が出ませんという話であれ、
その他蓋が閉まってないよって怒鳴られてうるしいって話であれ、
全部同じ。
自分の心のコンテナの機能を全幅の信頼を置けば、
そしてこれは多くの場合、直接殴られてるとか、
槍で刺されてるとかでもない限り、
全幅の信頼を置けば必ずこいつが何とかしてくれるんですよ。
だってそうのはずなんですよね。
相手はないものなんで。
ないものが自分にしてくる悪さなんて本当に微々たるものなんで。
これを過大評価するということは、
自分のコンテナの心のコンテナの機能を過小評価しているということにほかならない。
この過小評価があるレベルを超えて、
線を超えてしまうと精神病性に近づいていくという話なんだなというのは、
あらゆる機会を捉えて理解していくしかないなって思います。