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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
昨日ですね、受験の娘の受験があったんですけれども、
出先でこれを撮ろうと思ったのですが、結局撮れずじまいでして、
まあ、やっぱり外だと人目があると、気にしなきゃいいんですけれども、
多少は気にするので、結局何もできずじまいでした。
で、今日はまだ家にいるので、これから迎えに行ったりなんだりするんですけど、
その前の時間に撮っちまおうと思って、やっております。
でですね、グッドバイブス勉強会のシーズン3の第3回、第2回、シーズン3の第2回がですね、
もう12日に迫っていて、人間関係について考えると、
ここ、これはですね、オンラインです。もちろんオンラインで3000円。
このご時世、リアルに十何人も集めるというわけにはなかなか参りませんので、
とりあえずオンラインで3000円で、いつも通り第2回となります。
人間関係について考える。人間関係面倒だとか、面倒だという言葉が一番多いかな、
というのが、人が来ていただくといいかもしれないと、そういった感じです。
来ていただくというか、お申し込みいただいて、その場でズームっていう感じで行けます。
はい、非常にお手軽です。
でですね、受験の話をしてもいいと思うんですけれども、
今さっき考えておったのは、よくよく最近また耳にする、
頭ではイリュージョンだってわかっているんですか?
っていうあれですね。私もありますけど、いっぱい。
もしですね、頭でイリュージョンだとわかっているというところだけが問題であるならば、
少なくとも自分はですね、グッドバイブスっていらなかったと思うんですよ。
あの、何て言うんですかね。
いやもう明らかなんですけど、
私、グッドバイブスの考えというもののいくつかのコアになるいくつかのことは、
ずっとそれは頭では確かにわかっていました。
聞いて初めてっていうのではないです。
一番僕の中で、それはその通りだと言えるのが、
罪と罰ですよ。あれは人の作ったものだと。
なんだけれども、引っ掛けられてしまうというか、
囚われてしまう。もう本当に文字通り囚われてしまう。
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頭でわかればいいだけなら、ワッドステフキーの小説を読めば一発ですよ。
まあでもあっちの方が面倒くさいと思われるかもしれませんけれども、
私あれでもなんだかんだ5回は読んでますんで、
罪と罰でしょ。
罪と罰というのは人為的なものであって、
でも人為的なものなのに、
要するにこういう言い方になっちゃいますけど、実存に食い込んでくるってわけですよね。
ドステフキーは銃殺されそうになったところ、命からがら助かったんですよ。
まあ革命運動に参加したってことで銃殺されそうになったんですよね。
この銃殺がもう直前だった。
彼の前に並んでた人は銃殺されちゃった。その後で御社が出たのかな。
もうそういうなんかですね、とんでもない目にあっているから、
しかもそれは罪に対する罰として銃殺されそうになったわけですよね。
そのようなもので、
なんて言ったらいいんですかね。
私たちの価値が測れるはずはないと、
彼は深刻に考えたと思うんだけど、実際に測られちゃってるわけですよね。
あの時代は特にいとも簡単にそういうことが起こってしまっていたということが問題だったわけですよね。
あの小説では。
そんなのはちょっと考えると、いろんなところで出くわすじゃないですか。
あんなひどい目にあうことはまあないですけれども、
出くわしますよね。
私もあんなひどい目には全然幸いないんですけれども、
出くわすわけですよ。
その時についつい考えがちなのが、自分は本当に悪いんだろうかっていうあれなんですよね。
この思考にとらわれる限り、
こいつは本当に悪くないのかっていう話を必ずしちゃうんですよ。
車擦ったりすると必ずやりますよね。
どうでもいいと思っているわけですよ。
内心、内々心ぐらいではね。
そういうこと思うじゃないですか。むしろ若い頃にですね。
私の教授が教えてくれたんですけど、
英語の、うちは英語学科だったんで、
試験当案にinvainで埋めてくるやつがいたんだ。
まあ毎年そういうやつが一人ぐらいはいる。
このinvainってやつですよ。
無駄なってわけですよね。
誰だっけな、サルトルか。
生きることに意味はなく、死ぬことにも意味はなく、
人生は虎の情熱であるって言って、
なかなか僕がしばらく座右の銘にしていたんですけど、
この言い回し一つとっても文句言いたそうですよね。
生きることも死ぬことも意味がないのに、
情熱だけは残っちまってるんだよなっていうニュアンスが感じられるじゃないですか。
invainも同じですよね。
invainはちょっとランクが下がる感じはしますけれども、
無駄だと思うなら受けなきゃいいわけですよ。
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受けておいて、しかも白紙で出さずinvainとびっしり埋めるということは、
えらく情熱的じゃないですか。
こういうところに人の苦しみってものがあるわけですよね。
若い頃ってこういうのをよく感じるじゃないですか。
今どきうちの娘もきっと感じてますよ。
こんなのに本当に意味があるのかなと思いながら、
朝から晩まで勉強するっていうあたりに、
受験ってのに意味があるとすると一番その辺だと思うんですよね。
意味ないことをやってるのかもしれないと思いながら、
情熱を注ぐみたいな、
そういうのが人間の生にはつきまとうと思うんですよ。
私は娘よりははるかにそっちの問題には小突き回された感っていうのがありまして、
つきまとってたわけですね。
だからただ頭の中で本当のことはわからないということがわかるだけでよかったり、
罪と罰は人工的なものだということがわかったりすればいいっていうだけならば、
それだったら一生懸命グッドモーニングバイブスとか喋ったりはしてません。
今日も受験でこれから迎えに行くのにこんなところで喋ってたりはしてないわけですね。
やっぱりこれをどうやって、
例えば奥さんとの会話の中で、
虎王の情熱っていう面はあるんだけれども、
でもそれがどんなにくだらないと思っても、
それこそこの番組でもよく喋ってますけど、
クラウドワークスっていうのが、
1ページ全部やっても一円になるかどうかわからんものを、
意味はあると思ってやるのは難しいですね。
虎王の情熱とも言い難いけど、
情熱もないけれども、でもこうやるわけですよ。
こういう時にも、
つかむっていう時にグッドバイブスが出てくるのであって、
頭の中でイリュージョンだとわかってればいいんであれば、
本当にそこまでやることはないよねっていうことになるわけです。
あえて本を書いたり読んだりするようなことではないわけですよ。
ただこれが頭でイリュージョンだとわかっているので、
これはイリュージョンだとはわかっているんだけどっていうだけでいいならば。
タスクシュートでも同じですね。
記録を取った方がいいのはわかってるんですがっていうのを聞くと、
いやいやいやって思うわけですよ。
むしろ逆ですよ。
記録なんか取ったってしょうがないってことはわかってないっておかしいじゃないですか。
私はそうむしろ思うんですよね。
記録取って何になるのかと。
ただまでは記録なんて無駄だと思いながら記録取るんですよ。
これができるように少なくともならなかったら、
記録を取るのが意味があるとはわかっているんだけど、
1日分の記録が真っ白ですっていう段階は、
私はタスクシュート未満だと思うんですよね。
タスクシュートをやるときにはですね、
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少なくとも何々には価値があり、何々には価値がない、
何々には価値があり、何々には価値がない、
この苦しみから始まるはずなんですよね。
価値のないことはやりたくないんですって、
若い頃はよく言うじゃないですか。
価値があること、意味があることだけがしたいんです。
だったらどうしてそれができないのかを明らかにしましょうと。
既に明らかなんだったら別にいいじゃないですか。
意味のあることだけやる方法だけを考えておけばいいじゃないですか。
明らかじゃないんですよ、これが。
時間は大切ですって言うんですよね。
皆さんおっしゃる。皆さんは言わないかもしれないけど、
少なくともタスクシュートに絡むような方を言う。
時間は大切ですと。
でも、私はファン座を見るのは大切だとは思いませんと言うわけです。
でも貴重な時間を使ってファン座を見ますと。
この矛盾をどうするかって話をしているわけですよね。
インベインってビッシリ書く、その情熱はどこから来てるんだってことです。
だから、ここはスタートラインであって、ここがゴールのはずがないんですよ。
ここがゴールであるならば、グッドバイブス読むことは別にないと思うんですよね。
何が無駄で何が無駄でないのかは明らかだと。
自分の脳内でも感覚的にも明らかで、無駄のないことだけをすればいいんですよ。
しないということは分かってないってことですよね。
つまり、自分が何が価値が高くて何が価値がないのかは本当は分かってないってことじゃないですか。
少なくとも本当はという言い方は現実には分かってないと。
なぜならば現実にそういうことを取ってないわけですから。
ということはどっちかを受け入れなければいけないわけですよ。
時間は大切だと思っていないか。
それともファン座を見るのが大切だと思っているか。
あるいはその両方であるか。
これが時間が大切であることは自明であって、ファン座を見るのが大切ではないことも自明であるということは両立しないと思うんですね。
YouTubeでもここは何を入れても結構ですね。
ただ自分が大事だと思っていると思っていないということはその人の本心として認めるには無理があるってことです。
本心はそうじゃないんです。
そして本心の方に基準を合わせなかったらどうしようもないじゃないですか。
というお話なんですよ。
だからそこから全てが始まるということですね。
自分の本心を明らかにするのでもいいし、本心を見つけ出しに行くのでもいいんだけど、その考え方の一つとして記録を取るっていうのもあるんです。
記録を取ってみればあなたの本心が丸わかりです。
ここで本心を隠しましたって読んでは話にならないと言えなくもないわけです。
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Good Vibesでも同じだと思うんですよ。
イリュージョンなのはわかってます。
でも息子の妻に対して可能な限り最大限の攻撃を加えたいです。
おかしいわけですよ。
イリュージョンであることがわかってないはずなんですよ。
わかっているんだったら最大限の攻撃を振り向けたくはならないですよ。
なぜならそれは幻だってわかってるけど、幻に対して全力で戦っていきたいとは人は思いませんし言わないですからね。
幻だとは思ってもいなければわかってもいない。
つまりそれはリアルだと思ってるってことですよね。
リアルだと思っているからこそ戦いたくなるし、一歩間違うと致命的なドラクエでいうところの致命的な一撃みたいなのを加えたくなるわけです。
この致命的というのは要するに結局のところ、自分の正しさをリアルに証明したいということだと思います。
なんだけれどもリアルには証明されないわけです。
なぜならば幻覚だから。
問題だったらそれは本当に幻覚なのかどうかを問うべきであって、
頭では幻覚だとわかってるんですってところからそこを出発線としちゃったら、もうそこからはどこにも動き出せなくなってしまう。
そうは本音では思ってないわけですから。
幻覚ではなくリアルだと思ってるってことなので、リアルか幻覚かを明らかにまずしましょうっていうところから始まると思うんです。
ところがこれは外して受けが悪いというか、なんかよくわからないけどここを私たちは飛ばしたいというか、
ここを見に行くとか検証しに行くのを嫌うんですよね。
たぶん検証しに行くのが嫌だというところに、私たちがこれを幻を現実だと見させようという力が幻だとすれば、
幻なのにリアルだと思い込みたいとすれば思い込ませたいという気持ちが働くようにできているんでしょう。心がね。
そういうのがもし全くないとするならば、たぶんそれはリアルなんでしょう。
つまり奥さんが怒り、それに対して怒り返して一切がきれいに片付くというのがリアルなんでしょう。
そうでないならば幻だということになりますから、幻だということになるのになおリアルだと思いたいとすると、
思い込ませようという意識的な力、無意識的な力が働くということなんだと思いますね。
そのどれかじゃないと成立させるのは不可能になってしまう。
最初に罪と罰といったのは、この話は罪と罰だからですね。
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罪と罰が幻だと思うというのは結構大変なことなんですよ。
もう本当に簡単に作り出せますよ。
例えば今日これから私は受験票を持って横浜の方まで行かなければならないわけです。
ここで受験票を忘れようものならですね、もう僕なんか罪人扱いですよ、この家じゃあね。
こういうことをやるじゃないですか。
そして対外の人は相手も罪悪感を持つべきだって思っちゃうんじゃないですか。
こういうこと本当に多いですよね。
昔からずっとやろうと思っていた、例えばだいぶ前の話ですけど
タスクセラピーというコミュニティでやってましたと。
でも一人の人が早々に離脱してしまいましたと。
あいつなんだ言い出しっぺのくせにみたいな、そういうのってすぐ私たちは罪悪だということにしちゃうじゃないですか。
そして相手が全然平気な顔をしているとすっごく腹を立てる人だっているわけですよ。
私はそういうのは自分が当事者でない限り、例えばですね、離脱された側だとしてもそういうこともありましたけど
絶対相手に罪悪だとは思わなかったんですよ。
罪と罰なんてドストエフスキーが書いた通りなんですよ。
なんですが、つまり頭ではイリュージョンだとわかってるんだけど
でも例えば30分遅れて編集さんとの待ち合わせ場所に行って、行ってですね。
もうこの段階でめちゃくちゃ罪悪感を持っちゃうわけですよ。
このイリュージョンだと頭ではわかってるんだけど
どうしようもできなかったときにイリュージョンですって言ったというのが
僕じゃなかったところにグッドバイオスの意味が極めて強く出るわけですね。
しかもはっきり言いましたからね。
つまり蔵園さんはグッドバイオスを言ってみれば
これも微妙な表現になっちゃうんですけど体系化したんですね。
かなりの部分。だから言い切るってほどができるんだけど
私はそれを経験則で用いてたんである意味では
グッドバイオスの一部の考え方ですよ。
それは聞く前から思ってたものってことです。
罪と罰はイリュージョンだとかなと思ってたわけですよ。
イリュージョンだろうと。
だけどいざとなると適応できなくなる。
自分はそれを日常生活に適応するという格好では
体系化しなかったし考えの中で。
しかも自分がされたときの性格的な弱点があったわけですね。
簡単に言えば、全然簡単じゃないですけど
この番組ではもうしれっと言っちゃいますけれども
内的な母親ですよ。うちなる母が機能しなかったです。
環境としての母親が機能不全に陥るとあれが起こるわけです。
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当然ここは甘えるということが成立する場面だという
それを意識的に言ったらダメですよ。
ここはもう編集さんに甘えようとか
それじゃ全然ニーズになってないんですよ。
ニードの段階で受け止められるものだという風に
認識できればそれで通るんですよ。通るっていうか
もう通らないわけにはいかないというのかな。
僕の心の中の話ですからね。
世の中でどうかって話をしてるわけじゃない。
心の中でこの甘えは当然受け止められるはずなんだけど
こういう時に私の心の弱さが出て
つまり環境としての母親がなぜか不在になりがちになり
自分一人だけほっぽり出された感じがして
罪悪感を引っかぶるわけですね。
この罪悪感を引っかぶったまま
現にこういうことが起きたわけですけれども
その企画がポシャリましたということになると
うわーってなるわけですよ。悔やむわけですね。
土居さんの表現を使えば
甘えの皇族の土居さんの表現を使うと悔やむことになる。
というか悔やんでも悔やみきれない状態に入る。
これを欲打つと、彼は欲打つというのは
日本語では悔やみの精神だし心理なんだという風に
つまり物作業というのは
いかにもまた精神分析用語っぽくなるんですか。
物作業というのはつまり
お悔やみ申し上げますと葬式のときに言うでしょう
と彼は書いてるわけですね。
つまり悔やむわけですよ。
あの時ああしていればってやつですよね。
で、喪失するわけです。
仕事とお金を喪失すると。
あの時ああしていれば
お金を失わずに済んだのにって思うというわけです。
で、私のバカってやつですよね。
つまり罪悪感を持って自責すると。
あるいは自罰すると。
これを頭の中で
いやイリュージョンだとわかっているんだけど
ドストエフスキーも小説に書いてたしとか思っても
ダメだったってことなんですよ。
これを具体的に日常生活に適用できる形というものに
直していかないと
結局こう
答案用紙にインベインをいっぱい書くみたいなことで
なんかこう鬱憤が晴れたような気になるのが
せいぜいでそこから前へ進めないわけですよね。
ということを考えるに
やっぱりこう
頭でわかっているというだけでは
十分ではないし
それはわかってないということにむしろなるんじゃないかと
タスクシュートしっかりなわけです。
記録を取るのが大切だと
頭ではわかっているんですがといって
100日間何の記録も残っていませんというのは
それはタスクシュートの問題ではないと思うんですね。
ここが頭ではなくて
むしろわかっているところから全てが始まる
そういうふうに考えてもらえるといいかなというふうに
最近思っています。