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2024-09-10 49:09

「女性が怖い」としても「ミソジニー」はピンとこなかった【1051】

コントロールを受け入れたからといって、逆らいえなかったとは言えない。
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Summary

このエピソードでは、近年の女性に対する偏見やミソジニーの問題を深掘りし、その影響を探っています。様々な視点からの考察を通して、社会における性の役割と心理的要因についての理解を深めます。このエピソードでは、母親との関係を通じたミソジニーの理解について考察しており、信田さんの視点から母親を憎むことやその社会的影響がどのように絡み合っているかを掘り下げています。このエピソードでは、親子関係とその中での感情の葛藤について掘り下げ、特に母への恐怖感が語られます。また、ロリコン文化とミソジニーの関係に触れ、成人女性への恐怖がどのように形成されるかを探求しています。このエピソードでは、女性に対するミソジニーの理解や、心の中の母親像がどのように影響を与えるかについて語られています。また、個人の経験や社会規範が女性に対する心理的な影響をどのように形作るかも考察されています。本エピソードでは、年上女性に対する感情や母親との関係がミソジニーとどのように関連しているかを考察しています。

エピソードの紹介
おはようございます。働く人に送る精神分析チャット、第1051回をお送りします。
9月の10日、火曜日、朝8時3分ですね。
なんとなくなんですけれども、このスタンドFMがようやく板についてきたかなって感じがします。
タイトルも元に戻したし、回も重ねてきましたし、気がついたら1050回過ぎてますもんね。
1100回が一応見えてきて、これはなんだろうな。
300だからかなり難しいとは思いますが、
1万回が入ってくるかなという感じが若干ね。
こんなのを1万回もお前はやるんだろうかっていうのもありますが、
1万回って大したもんじゃないですか。
もしずっと再生回数が今後4桁には届かなかったとしても、回だけは5桁いってますみたいな。
頭悪そうですけれども、そんなことを考えてはいませんが、
今は不意に考えただけですけど、3000回はいくんじゃないかな。
3000って数字は僕は全部野球なんですけどね。
こういう特に数字が絡んでくると野球になっちゃうんですけど、
野球数字の視点
張本さんとか一郎さんとか3000アンダですからね。
3000アンダすごいですよ。
これの3000回とかとは全く気にならない凄さがありますね。
2000本アンダってあれ言うんですけど、野球伝道ってところに入れるんですけどね。
超人ですよね、2000本打てる人っていうのは。
年間だいたい200は打てないんですよ。
一郎さんが200打った時に大ニュースになったぐらい、年間200本はまず打てないんですよ。
年間200本打っても4割には届きませんけど、打率は。
3割の高い方ですけど。
まあ、105、60。
いって一番打てる人が107、80。200いくことはまずないから、
200を10年続けて2000でしょ。
この数字はどんだけ大変かっていう感じですよね。
100を20年続ける方が現実的なんだけど、
20年経っちゃうと今度は選手生命的に厳しいんで、
だいたい20歳で野球始めて、しかもいきなり出て100本打てる人ってほぼいませんもんね。
だから、100打って20歳で40歳になっちゃうじゃないですか。
だから一生懸命150ずつ打って、それができる人はほぼ人間じゃない感じなんで、
日本に1人とかしかほぼいないと思うんですよね。
2000本はすごい。だから一郎さんとか張本さんね、昔の3000本とかほんと。
ほとんど、どうすればそういうことが可能になる。
200本ずつでも15年かかっちゃいますからね。
一郎さん45とかまでやってましたけど、
本当に普通じゃ考えられないんで、3000回以降みたいなのはちょっとあります。
4000回いったら偉いなとは思いますね。
偉いだけ、自分が偉いと思うだけなんですけど。
まだ3ヶ月チャレンジのCMをするにはやや早いですし、
このままCMもなくいこうかなと。
今度3ヶ月チャレンジも全然ここをメインにするつもりはありませんけど、
タスクシュートの話、話はともかくを使うっていうのは組み込んでもいいかなと思いました。
タスクシュートをお使いの方はですね、
タスクシュートと精神分析っていうのも、
でも精神力量とタスクシュートっていうのは全く縁がなくはないんで、
僕の中では縁があるんで、そんなに込みって話をする必要はないですし、ないと思いますし、
そんなにタスクシュート精神分析で考えるぜみたいな、
そこまでやることは全然考えてませんけれども、
タスクシュートやってますという方向けの何かを企画するのはありかなというふうに思ってます。
来期からですね、第8期からは、
いろいろと毎週1回固定みたいなんじゃなくて、
セッションも流動的にできるようにさせてもらったり、
さまざま考えるところはありますんで、
またよろしければ見てやっていただけるとありがたいです。
金額的にお高めな設定には確かになってるんですが、
これを運と安くして大規模コミュニティにするとかは、
私がまずやってうまくいった試しがないから、
やっぱりこっちはJさんとの百チャレとかね、
あっちの方でやるべきだと思っているわけですね。
そうすると少数になってしまうので、どうしても。
やっぱり全ての人を把握できるという状態が、
私のやってる主催では大事だなと思うので、
ここでいかにそれなりに豪華なものを出せるかっていうのを、
メインでやっていく必要があろうかなと思っております。
社会と心理の考察
言論とかもそんなにお安くないじゃないですか。
ビデオすごい豪華な人を読んで豪華に見られてますけれども、
だからやっぱりお安いわけじゃないんですよね。
結構社会問題とかだとしてもですね、
ただで見られるとかでは全然ないわけですよ。
この辺は本当に難しいなって思うんですよね。
自分が好きなコミュニティとか好きなこうやることを
しようと思うとやっぱりお金がいるので、
NHKってロフィーじゃないんでね、
全国民から少しずつ取りますから、
でもやることはものすごく制約かかってますという考え方で
やるにはすごい大規模なものになってしまう。
そしてそれは誰がやりたいのかよくわからないっていう、
それをだからなんていうの、
ってことになるんでしょうけどね。
多くの人が必要としてるけれども、
それをやりたいという人が特定できるものとは違うっていう、
私がやるようなものは全く逆じゃないと、
やっぱり話がおかしくなっちゃうんで、
そういうふうにして考えてます。
昨日まですごいのぶたさんブームだったんですけど、
僕の場合はやっぱりこれをソーシャルワーク的なものではないし、
ムーブメント的なものでもないんで、
僕の中にそういう情熱は非常に薄いんで、
のぶたさんブームは大体昨日ぐらいまでがピークで、
これからは、でもなんか法が残る気がするんですよ。
大幅に下がっていくみたいなね、そういう感じがします。
やっぱり僕は心理ものに、
心理と社会っていうふうに考えてみると、
本題入っちゃってますけどね、
やっぱり自分の周りを本当にどうするかっていう、
物理的にってことですよね、どうするかってことと、
物理的なものは一旦問題はあるかもしれないけれども、
後で考えるみたいな感じになるんですよね。
どっちかというと僕は完全にものすごく刑事状寄りなんですよ。
なぜかというと、やっぱりおそらくですね、
環境を良くしても事態が良くならなかったから、
それはあなたが恵まれてるからですって話になるわけですよ。
ああいう考え方を取った場合はですね、のぶたさんの考えるような。
でも彼女はスクスク育ったから、スクスク型って呼んで、
しかも面白かったんですよ。
やっぱり彼女の話は非常にシンプルではないんですよね。
だから山崎さんと話が合うんだろうだと思ったんですけど、
山崎孝明さんとね。
のぶたさんのスクスクっていうのは決して悪い意味ではないんですよ。
心理カウンセラーはスクスク育った人がやっぱりなった方がいいっていう言い方だったんで、
つまりこれご自身スクスク育ってるっていうことを案に言って、
案にではなく割とストレートにおっしゃってますよね。
ほんとか、例外がないわけじゃないと思って。
そこはもうわかんないですけどね。
で、スクスクかどうか、でもどうやって考えるんだっていうのもあるじゃないですか。
昨日最後の方で結構ちょっといろんな話をしましたけど、
要はスクスク育ってるように見えるからスクスク育ってるかどうかわからんわけですよ。
お父さんとお母さんがちゃんとして見えて、ちゃんとした教育を受けて、
ちゃんと物にも困ってないように見えるんだけど、
内情はすごく厳しい状態になってますということもすごくあるわけですよね、これは。
で、これもまた昨日ですね、これはもう縁だと思ってですね、
僕が最近は滅多に買わない、あのあれですよ、
信田さんの最新に近い本を買って読んだわけですね。
あのなんだっけ、国家と家族は凶暴する、だったと思う。
これですね、このポッドキャストでのおすすめ本っていう感じではないんで、
僕は読みましたみたいな。
それは言論ですごく推奨されてたから買ったんで、買ってしまったから読みましたみたいな、
そういうことなんだけれども、やっぱね、ちょっとややこしいことが書いてある。
いや、すごいシンプルなんだけど、少しひねってあるって感じなんですね。
それは例えばこう、まずですね、非常にありがち、ありがちって言ったら失礼か。
要するに、ソーシャル方面から来る、結構年代が高い女性の方面から言っている、
家父長生に反対してるって言ったらいいか。
そういう方面から来ている真理の話ってのは、
まず母娘を軸に置くことによって、アンチフロイトを言ってるんですよ、多少とも。
エディプスコンプレックスでどこまで言っても父息子じゃないですか、その葛藤じゃないですか。
あれほどですね、今あからさまに父に対して、お父さんがちょんまげ言ってるという時代じゃないんで、
どこまで言ってもめちゃくちゃな人って言いますけど、ある意味それはめちゃくちゃなんであって、
威厳があるとかではないような気がするんですよね。
で、とにかく男社会というものが父息子の葛藤であるならば、母娘ってのを出してくるわけですよ。
でも、信田さんはやっぱりそこから少しひねって、
息子の葛藤に本はまず焦点が入ってくるわけですね。
僕はこれは、言われ方はちょっと微妙に違う感じがするんだけど、よくわかるんですよ。
やっぱり日本ってそうなんですよね。
父の影は変に薄いんですよ。
威厳とかよりも、時々怒るんだけど基本いないみたいな。
うちはもっと色濃かったんで、何しろ寺って家にずっといますからね。
だから色濃かったんで、薄くは影はないんだけど、
でも、母の方が葛藤してるっていう、葛藤っていうのは強いっていう意味ではないんですけど、
生活環境全域に関わってきていると。
一応高度経済成長の最後の方、ほぼ終わってたけど、
最後の方で、いわゆる中流系の家庭というのはお金があることになっていたんで、
お母さんは専業主婦多かった。
うちは微妙なんですよね。
だって本当プライバシーというかプライベートとビジネスが、
なんちゅうのかな、八百屋さんみたいなものって、
でも八百屋さんとは似ても似つかないところもあるんで非常に難しいんだけど、
お母さんは働いてるんですよね。
しかも給与だってもらってるんだかもらってないんだか厳密にはわかんないんですけど、
結構お金もありはいいし、
いわゆる処刑さんって言うんですけど、
時々あまりにも忙しくなってくると、他のお坊さんが応援に入ってくる。
派遣社員みたいなものですよ、今で言うところ。
これを指揮するのも母だったりするんで、全部はしませんよ。
父が当然やるんだけど、母もしないわけじゃないっていう感じになってくるんで、
非常に家で会社を経営してるみたいな気配が入ってくる。
現にうちのリビングには月間計画表がバーンとあったんですよ。
母親の役割と家庭の力関係
よくあるじゃないですか、会社の事務所みたいなの。
ああいうものがいきなりリビングにあるんですよ。
13日4Gとか書いてあって、だからこの日は忙しいんだみたいな、
そういうノリなわけですけど、
マグネットで、わけのわかんない、わけのわかんないというか、
会社の書類なんですけど、そこに書いてあるのが討伐申し込みとか、
そういう書類なわけですよ。
うちは電話では受け付けませんみたいなことを言ってたりして、
完全に病院かなんかと似てるんですよね。
そして今でいうところのうちの母の役割って看護師長みたいなんですよ、思いっきり。
だけどドクターより偉いってことはありえないんだけど、
だから坊さんの方が偉いんだけど、
でも初期さんとなってくると非常にその力関係は微妙なんですよね。
だから下府長っちゃ下府長なんですよ、そのトップが。
社長ですからね、うちの父は結局ね。
だけどあんまり出てこないみたいな、そういうところには。
まあ性格もマイルドでしたからね、うちの父はね。
なんでそういうふうな切り盛り感があって、
すっごい忙しいと。
すげえ忙しいなという。休日がないからね、寺。
前日これになっちゃうんで。
暇が全くどこにも見当たらないっていう時期もないわけじゃないですよ。
あの、死がどんどんでかくなってたからそういうことになるんですよね。
死の割とサイズに応じた寺の規模になってくんだけど、
死が成長するってあんまり想定されてないわけですよ。
死の人口が3倍になったから、お寺の神社さんも実質3倍になるわけですよ。
だけど最初の規模のままの想定であるから、
住職1人で全部やるみたいな、そういうありえないことが起こるわけですよね。
で、まあまあそういう話はいいんですけど、
つまりですね、そういう中で母の存在感ってのはやっぱりでかいんですが、
憎むことと許すことの探求
でかいんですが、だからこう、母をちゃんと、
なんていうんですかね、まあよくあるんですよね、これは精神分析にも。
だけどこれはちょっと社会側から来るから独特のニュアンスになるんですよ、
信田さんの書かれる。
母をちゃんと憎めってことになるんですよね。
これはウィニコットあたりがよく言ってた話に近いなと僕は思うんです。
カウンセラーを憎めと。
で、カウンセラーを憎むっていうのはでもおかしいじゃないですか。
お父さんが憎いとかお父さんが憎い代わりにカウンセラー憎むっていうのは、
これは要するに転移ですよね。
で、まあこれは大事にするわけですよ、なんだかんだカウンセリングっていうのは。
もうこのカウンセラー憎めと。
そうするうちにカウンセラー憎むっておかしくないっていう感じになってきたときに、
あ、心の中に憎い人がいるのね、みたいなこういうことに気づいていくと。
でも、このなんていうのかな、
えっと、過不調性みたいな話って心の中の話じゃないじゃないですか。
実態のともになってますよね、過不調だから。
だから本当にお父さん憎めみたいな話から始まってくると、
だから社会運動的になっていくわけですよ。
で、本当のところお母さんを憎んでるくせに、
なんかこうね、えっと、
まあ信田さんなんでここはもうズバッとくるわけですけれども、
なんかお母さんを許しているようなねセンチメンタリズムに浸ってるからミソジーニになるんだよみたいな。
ここはですね、なんかこう、その論理で書かれてみるとわかりにくいって思うんですよね。
わかりやすそうなんだけど、なんていうんだろうな。
気持ちの上でそういうのに乗っかるのは簡単にできるんですけれども、
どうして許すことと許すふりをすることってどうやって分ければいいんだろうっていうのがまずありますね。
で、まあ許すと気持ちよくなるからそれをセンチメンタリズムとか自己倒水っていうんだけど、
その倒水と許したからグッドワイブズっていうところの愛そのものになるみたいな、
愛そのものになってるのかお前は愛そのものになってると思ってるだけじゃないのかって言われると、
そこを社会的に切り分けるのって無理じゃないかなって思うんですよ。
これはやっぱり心の中だけの話なんで、究極自分にしかわからない話だと思うんですよね。
ここを人が規定するっていうのは僕は、カウンセリング的に見ようと何的に見ようとナンセンスな感じがするんですよ、やっぱり。
いや許すのと許していい気持ちになるのと、今度するのやめなさいっていうのって、
かなり無理筋な反応がするんですよね。
結局でもそういうのが大事だって言われると難しくなってくるんだけれども、
だからそこに専門性ってきっと出てくると僕は思うんですよ。
それしかないと思うんですよね。
恐れと嫌悪の違い
だけど結局それを言えるのは本人だけじゃないだろうかという気はするんですよね。
それよりも何よりも私がやっぱり考え込んでしまうわけですが、読みながら考え込んじゃう。
だから読むのにえらい時間がかかるんですよ、話のものは。
なぜなら分かりにくいから、やっぱり。
いや母を許した気になっているより、本当に憎むということに仮にしたとしてですね、
でも実態としての母は、とてもじゃないけど本当に憎む対象になかなかならないわけですね。
だから母を対象化できないっていう、また対象化の言葉の使い方が独特なんで、
僕には独特に見えるわけですね。
対象化というのは、ミディゴッドみたいに環境としての母親が対象化する、
そうすると新春になるって言うんだったら、僕にはむしろ分かりやすい話に聞こえるんだけど、
母をちゃんと対象化できないからミソジーニになるんだって言われると、
飛躍が多すぎて、この間をいっぱいついでいかなければならないので、
最近だからその種の本を、あんまりその種の本ばかり読みたいっていうモチベーションが僕にはないので、
いろいろな本をちょいちょいちょいちょい探しながらですね、
対象化をしなければいけないという意味の対象化って何なんでしょうねっていう、
心の中の対象なのか、対象なんだから心の中だと思うんですけど、
精神分析にも分かりにくい言葉ってあって、外的対象って表現があるんですよね。
外的対象化っていう、外在化してしまったらそれはもう現実のものなんだから対象じゃないんじゃないかって、
僕はどうしても思いたくなるんですね。
だって外にあるものって、全体は分からないわけじゃないですか。絶対に、全体は。
外にあるものは、たとえ母子が一体だろうとなんだろうと、
例えば今この瞬間に私の母が何をしているのか、たぶんテレビ見てると思うんだけど、
分かんないんじゃないですか、そんなことはね。
だから外在しているものは対象じゃないと思うんですよ、絶対に。
外在しているものはどこまで行ったってどこか謎に満ちているわけですよ。
ウィリコットが究極的には人には見えない部分があるみたいな、
そういう孤独っていうか孤立っていうのかな、その秘密っていうのか、
そういうのがあるっていうのは、私はそりゃあると思うんですよね、やっぱりね。
知りたくもないことだってやっぱあるわけじゃないですか。
知り得ないことがそもそもありますし、
私だって自分自身のことだって100%分かってるなんてことはあり得ないわけですよ。
昨日もなんかよく分かんないんですけど、太ももにいきなりポツンとでき物ができたんですけど、
なぜできたのか全く分かんないわけですよ。
でも私の体のどこかが何かがあって何かを準備してそういうものを出したわけじゃないですか。
私のことじゃないですか。
だけどそんなものは私自身にも何だか分かんない?になってしまうわけですね。
というわけで現実ってのはそれこそ外部にあるので対象にならないって思うんですよね。
対象ってのはやっぱり自分の中にあるような気が私はどこまで行ってもするんですけどね。
だから対象って自然と内的対象なんじゃないのって言いたくなるわけですよ。
外的対象ってのはおかしくないかっていう感じがします。
何を言ってるのか分かるような気もするんだけど、定義できない言葉だなとは思う。
まして、母親の対象化をしないとミソジーになるってのは現象としては分からなくはないですよ。
僕のような人間が例えば母に圧倒されてたとは確かにそれはそうなんですね。
信田さんの時代はそうだったのかもしれないけど、男の人は父親に負けるのは許せるけど母に負けるのは屈辱的で認められないから、
ここで否認が入って母親に負けてるというのを否認して母親は弱くてかわいそうで優しい人だからと言って
許した気になってセンチメンタリズムによってミソジーになるっていうのはロジックは追えないんですよね。
結果は分かるんですよ。母に圧倒されてた。まあ間違いない。
そうするとミソジーになる。これが難しいんですよね。
私は女性を嫌ってたって言われるのがピンとこないんですよ。
女性を恐れてたなら分かる。だけど恐ろしいものは嫌いでしょって言われると難しい。
それは分からないんですよね。嫌いなのと恐ろしいのはイコールではないような気がするんですよね。
少なくとも切り分けられるようなところがあるんですよ。
例えば私は昔ナスという食べ物がちょっと嫌いだったんですね。
皮の厚いのが歯と擦れるあの感触が気持ちが悪くて。
ナスが恐ろしいと思ったことは一瞬もないんですよね。
ナス食べるのが怖いってことは食べれなかったわけじゃないんですよ。
ただ好きではない。例えばナスとカボチャがあれば絶対カボチャから食うみたいなそういうことはあったけど
それはナスが怖いってことになるかなっていうのがどうしても無理がある気がするんですよね。
結構食べてましたからね。しかも今やたら好きなんですよ。
ただあの歯にキュってくるやつはちょっと嫌だ。まだ。
ただ好物になってしまってる。こういうのはですね、私はあると思うんですよね。
この100%好きじゃないからむしろかえって大好きなもの。
私の中では食べ物はすごく多くて、タコってあるじゃないですか。
あれやっぱり僕はちょっと気持ち悪いから大好きなんですよね。
なんかアホみたいに食ってしまう。
でもそれはちょっと気持ち悪いんですよ。やっぱりね。
ちょっと気持ち悪いじゃないですか。なんかあれって。
だからアホみたいに食ってしまうっていうのはあって、全然気持ち悪くなくて純粋に大好きですみたいな。
例えば僕にとってパンケーキがそうなんだけど、あんなものずっと食ってられませんよね。
すぐ飽きる。あんなものをずっと食ってたら。
胸焼けするし。なんかタコとかほどはパンケーキは食えないけど、
純度から言うとパンケーキは気持ち悪いところ全然ないし、いいところしかないんですよ。
ああいうのはね、そんな食べませんよね。
何の話をしてるんだかはもう一つなんだけど、
何の話をしてるんだかはもう一つなんだけど、
野太さんの話って僕多分非常に理解するのが困難なんですよ。きっと。
味噌汁ではない気がするんですよ。
親子関係の恐怖
で、この私にとって母を恐れてるというのは分かりきったことだったんですけど、結構怖かったからね。
これを虐待って言えるかどうかは、僕は結構すくすく育ったと思ってるんだけど、
子育ての仕方に問題がなかったかというとそんなことはないんですね。母のね。
だけどみんなあるだろそれとも思うわけですよ。
昨日そのおとといか野太さんと山崎孝明さんの対談でもグッドイナフについて、
グッドイナフなんてとんでもないことだと言ってて、それはそうかもなって思うんですよね。
例えば今のガザ地区とか見ても分かるけど、現実はグッドイナフじゃないだろうってことだと思うんですよね。
でもですね、現実はグッドイナフだと思っとくしかないだろうという感じを私はやっぱりここはもう宗教に近いんだと思うんですよ。
だけどそれはあなたがすくすく育ったからだっていう、また例によって例のごとくそれを出されると、
でも山崎孝明さんは私よりも絶対すくすくなんですよ。そんなことを言えばですね、
彼の方が僕よりなおさらに恵まれてると思うんですよ。僕の考え、感覚では。
でもそれは分かんないですからね。家庭、家庭にはどこで、中で何が起きてるかそのことを書いてるわけですから、野太さんは。
結局家庭の中は無法地帯だって書いてるわけですから、
山崎孝明さんに寄せると違い法権だってことになるらしいんだけど、僕はそれはそうだと思います。
結局家の中で行われることっていうのはね、うちもそのお父さんルールが適当なお父さんルールと適当なお母さんルールが、
しかもそのルールは一貫しないルールがね、適当に作り出されていて、子供はそこに口を挟む余地はあんまりないみたいなね。
でもうちは、私はごく当たり前の家庭だったと思うし、虐待を受けていたとは100歩譲っても思わないですね。
思わないし、だから怖かったわけじゃないと思うんですよね。
親を子供が怖がるというのは、例えばうちのような甘々家庭でも、私の家ね、娘は私をちょっとは恐れてますよ、やっぱり。
だって体の大きさが全然違うし、なんだかんだ言って、とことん抵抗されたことってほぼないんだけど、
全くゼロではないし、1回や2回は、1回や2回どころではなく、でも10回はない気がするんだけど、
感情に任せて起こるなんてことはありますね。
だからそのことにお互い罪悪感を抱くとかそういうレベルには全然入ってませんけど、
まあ、ゼロじゃないと思うんですよね。
これを虐待と言うかというと、たぶん絶対言わないと思うんですよ。
むしろ甘すぎるとは何度も言われるんだけど、妻とか、いろいろ言われるんですけどね。
甘すぎることはあるかもしれないけど、厳しすぎたことは一度もないと思うんですよね。
でも、怖いっていう感情がゼロにはならないと思うんですよ。
いろいろありましてね。
だから、うちの娘は家大好きだし、親大好きっぽいですし、
お母さん大好き言いますけれども、でもお母さんがいないと楽だわみたいなことは1日や2日ならね、
やっぱりそういうことってありますよね。
ゼロにできないですよ、そんなものは。
好きだろうと怖くながら怖いんだよね、やっぱり多少はね。
そこに原力購買って言葉はいかにも大げさで、
まあ上下関係がいざという時に出たっていう。
だって自分は赤ちゃんだったわけですからね、最初の出会いにおいてはね。
首も座らないのが最初ですからね。
この時に上下関係がないようにすることはないだろうし、
だからといって、実態を憎むところまでいくかなとは思うんですよ。
私は今の母をやっぱり2ヶ月に1回ぐらいは実家に分け合っていきますが、
母見て実態憎むとは正直ないなって感じがするので、
小学校時代にはありましたけどね、
ミソジニーとロリコン文化の考察
いろいろと言いたいことがあるみたいなことを思い出せば、
これも忘れてるのを否認だと言われると抑圧とかね。
そんなことはないような気がするんですよね。
私はそんなに特殊な育てられ方をしてない。
否認したり抑圧しなければならないようなことはあまり考えにくいんですよ。
すぐ思い出しますから。何かきっかけがあれば。
まあそれが否認ですかね。難しいな。
でも女性恐怖みたいなものは、つまり成人女性の恐怖、
これをあっさりロリコン文化みたいな話にしちゃうんですけどね、
これは僕の考えでは専門家に向かって、
だから何の専門家かっていう話もあるよね。難しいですね。
僕の考えではロリコン文化というのは、
これと直結は僕はしないんじゃないかなというふうに思うんですよね。
ミソジニーで女性を恐れてるから、成人女性を恐れているからロリコンになるんだって、
この論法だとあたかも私が、女子高生や女子中学生は恐れてなかったみたいじゃないですか。
僕は恐れてたんですよ。
だから成人の女の人だけが怖かったわけではないんですよ。
よくあったんですよ、昔。今であるのか知りませんけど、
日本の男は大人の女に相手にされないから子供に向かう論みたいな。
でも僕は大人にも子供にも相手にされてなかったんですよ。
だから大人だけが怖かったわけでは全然ないんですね。
母親に向かう向かう言っているじゃないですか。
だから僕はそれとロリコンがどう結びつくのかなっていうのを昔から困惑してたんですね、非常に。
よく言われてたからそういう話を。
昨日山崎さんは野太さんのあの時代のすごい先端を言ってて、
DVとかアダルトチルドレンとか共有依存とか当時言ってたのはすごいんだっていう話をされていてすごいんですけど、
でも彼が言うほどあの時代にそういう話がされてなくはなかったんですよ。
僕は野太さんの本を最初に見たのは多分僕がちょっと記憶が曖昧ではありますが多分派遣社員やってた頃なんですね。
あの頃そういう話すっげーしてました。
それはそれもまたですね、ちゃんと捉えていなくてバラエティ番組で消費してただけみたいに必ずそういう話出ちゃうんですけど、
そうかもしれないですけどやっぱりでも出てたことは出てたんですよ、かなり。
もうなんか連日のように共有依存みたいなとか家庭内暴力、いつしか家庭内暴力がDVって言葉になりましたけど、
共有依存って言葉もどっかで消えたんですけれども、アダルトチルドレンもそうなんですよね。
どっかでなんか消えたんですけど、でもアルコール依存とか、
引きこもりというのは当時まだそれほど言われてた気がするな、1999年とかですよね。
あのなんだっけな、すごい面白いブログが、ブログなのかあれは。
当時はね、なんかこうネット日記みたいな言い方だった気がするんですよね。
皆さんご存知あるかわかりませんけど侍魂とかいうのが私もいつも読んでたんですけど、
侍魂のそっくりの日記を作って喜んでた時代もあったんですけど、
パソコン通信がインターネットに変わった頃の黎明期で、
社会的背景の影響
でも99年はもう黎明期って感じは僕は全く持ってなかったんですよね。
もうパソコン、インターネット全盛だぜみたいな感じで、
僕はあの大好きだったんで、機器としてテレ放題とかで、
夜10時から2時ぐらいまではもうずーっとそこに張り付いてて、
何をしてたのか今さっぱり思い出せない。
侍魂読んでいて、もうなんかそれが偉いことのように、偉いアホですけど、
偉いことのように思い込んでましたからね。
まあいい成人ですけどね。
で、その中にね、なんか引きこもり、引きこもりなんとかっていう、
だからやっぱ当時からすでにそういうのあったと思うんですよね。
なんか膝を抱えている、上手いんですよ絵が。
なんかこう、あの非常口の絵みたいなので膝を抱えていて、
すげーしょんぼりしている男の人がね、
多分僕と同い年ぐらいなんだけど、
いかに自分がダメでこもっていて悲惨でどうしようもないかを、
あのちょっとひもての品格を少し面白おかしく、
まだ面白く描けるところが救いで、
彼は今何をしているのか非常にこう頑張っててほしいんですけどね。
あの頑張っててほしいというか幸せになっててほしいんですけど、
まあとにかく人いいんだろうなあこの人もっていう、
ああいう人がですね、ただ母に圧倒され、
ただ成人女性にみそじんで、
そしてロリコンでだからどうにもならなくて引きこもってるっていう論が、
僕にはやっぱりこう、現象だけを追うとそうなっちゃうのかもしれない。
多分、あの彼の部屋にもそういう雑誌はいっぱいあって、
布団の下とかにね、絵柄ロリコンっぽいんでしょうね。
そしてお母さんの言うことを聞いてたのかどうか知りませんけれど、
僕もそうなんだけど、別にお母さんの言うことを、
超優等生みたいに1から100まで、この論もね、
僕は当時から非常にこう釈然としなかったんですよ。
竹宮圭子さんとかもよく描かれる漫画家のね、形なんですけど、
表面をすっごく優等生にしてるから、
裏ですごい遊びたいとか、エッチしたいとか、
そういうのを悶々としている男の子って描き方するんだけど、
なんかね、あの…なんちゃえばいいのかなぁ…
それは一つのパターンとして描かれるんでしょうけどね。
私は母にはめちゃくちゃ口応えもしていたし、
言うこともある意味全然聞いてなかったし、
勉強しろとか言われても、どっかほっつき歩いて遊びに行っちゃって、
なんか駄菓子屋とかに行っちゃうんですよ。
そういう意味ではあからさまに普通なんですよね。
ただ、恐れていた程度が少し強いんですよ。
私の友達とか、特に地元の小学校の友達とかは、
駄菓子屋とか行って、完全に文言とかを忘れ去ることができるパチなんですよ。
でも私はできないんですよ。破っても意識はしてるんですよ、常に。
つまり神経質なんですよ、そういう意味で。
そういう心の中で起きているコントロールであって、
だから実体感が伴ってないっていうところの方が、
僕にとってはすっごい課題だったんです。
実体としての母はそんな怖くなかったんですよ。
中学、高校ともなれば、私の母は小柄でしたし、
怒鳴って口達者な時に口喧嘩では勝てなくても、
いざ本当に喧嘩になれば負けるはずがないっていう認識があったんで、
私はヒョロヒョロっとしてひ弱だったっていうタイプではないんですよ。
山崎孝明さんみたいにボディビルみたいなことを高校からやるなんていうタイプでは全くないですけれども、
テニスやったり野球やってたりしていたわけですから、
体力という点で母に劣るわけはなかったんですよ、当時から既に。
ただ、言うことはそのまんま、少なくともそのまんま、
いきなり逆襲するみたいなことはしなかったから、
それはなぜかっていうと、内的には完全に親子関係が維持されてたからって感じなんですね。
これが問題なんだろうかって思うんですよね。
これは憎まなきゃならないようなことなんだろうかと。
これは内的にコントロール状態が維持できるような内的な感じ、
そこにグッドワイブ強いところのあれですよ、罪悪感に訴えるみたいなのは当然あります。
心と母親の影響
例えば勉強しないのはお前が悪いんだろうみたいなのは、
私の声なのか母からの声なのかがはっきり聞くわけができないわけですよね。
それはだから私はそれは心というのはそういう構造になっているからだっていう風に考えるのが好きなんですよ。
対象関係論的に考える。心の中には人がいるってことですよ。
ただしその人は外在する人間と深い関係にはあるかもしれないが、
同一のものでは絶対ない。当時すでにそれは全くそうだと思ってたわけですね。
どう考えてもその内部でコントロールされているからこそ、
例えば外にいて駄菓子屋にいても文言を気にするわけですよ。
私が気にするのはどうしてなんだろうって考えるんです。
気にするということは横に母がいて見張ってるんじゃないんだから、
気にするってことは私が心の中で母に見張られてるってことになるわけじゃないですか。
で、心の中で母を恐れているわけじゃないですか。
で、まだ小学校だったら本当に怖かったかもしれないけど、
中学高校ともなってくると本当は怖くないんですよ、そこまでは。
本当は怖くなくていいはずだと。
私は当時は行動科学的に考えてたから、条件反射的に母が怖いんだろうって思ってたんだけど、
それだってやっぱり遠隔操作みたいなもんだから遠隔で操作できるっていうのはすごいことではありますが、
遠隔操作っていうのは本気になれば振り切れるっていう意味だと思ったんですよね。
やっぱり遠隔操作は直接操作ではないので。
まして、例えば母が帰ってこないんだったら警察を呼んで帰らさせるみたいなことはできないわけですよね。
ミソジニーの理解
子供だったらできますが大人になったらできないわけですよね。
そういうことだろうと思いましたから、実態を憎んでも意味がないような気がむしろ私はしたんですね。
憎むなら対象を憎まない。
で、私は対象とやり取りをしていたわけですよ。
これをやりすぎていたのが僕の問題だと思うんだけれども、
この時にロリコンって話になるのが不思議なんですよね。
要するに私は何種のかな、心の中に母だけがいるわけじゃないから、対象に投影する母性ですよね。
母性と言わざるを得ないんです。
母性というのは包み込む母性とかそういうことが言いたいんじゃないんですよ。
母的な対象っていうだけの話。
だからやっぱり女性とかじゃないんですよね。
女性って対象にならないじゃないですか。
具体化できないから。
女性とはこの人ですってのはおかしいですよね。
その人が対象化されているわけですよね。
で、対象化って内的なものだと僕は思うんですけれども、
この対象を数字で女性を見ちゃうから、
で、女性の方がやっぱり母を投影しやすいので、
好きでもあるし怖くもあるっていうこの心理状態が勝手に相手に向かっていってしまう。
そこに成人も未成年もある意味ないんですよ。
ただ、ただですよ。
後に僕はこのことに気づくんですけど、
これはもう僕の見解で、さっきのあのミソジニー論が結局のところよくわかんないんで、
もういつも言ってる件になっちゃうんですけど、
ただ、まっすぐお母さんっぽい女性に行ってしまうと、
嫌でも大でもお母さんを思い出す度が大きすぎるわけですよ。
社会規範と自由
そうすると気持ちが悪くなるじゃないですか。
近親相関タブーがあるから。
これは逆なんですよ。
多くの人は近親相関は本能かなんかみたいに思ってるんだけど、絶対違うと僕は思うんですよ。
近親相関という近親相関がタブーなのは教育効果だとしか思えない。
それをエディスコンプレックスって言うんだと僕は思うんですよ。
別に父親にあれですよ、虚勢するぞって言われたことはない。
ですが、そういう文化的な規範があるから、
お母さんに性的にまっすぐ向かうのはまずいだろお前っていう、
どっちかというとピアプレッシャー的なんですよね。
同級生がそういうことを言ってくるみたいな。
でもそれも結局僕は父親規範だと思うんですよ、ある意味では。
だから入ってくる、そういうものが。
だからそれはきしょいっていう感じによって、
ここにロックがかかる、ブロックされる。
ここは行ってはいけない方面なんですよってことですよね。
でも僕がものすごく反社会的であれば、
いやあえて行くぞみたいなのあると思うんだけど、
そこまで僕はとしま趣味とかを現実的には持っていなかったから、
ここでブロックがかかって、
言ってみれば母親対象的なものを通じるんだけど、
もっとも私の心の中で若い母親に向かっていくみたいな。
だからそうですね、やっぱり私自身の記憶では、
小学校時代の私は性的にはとしま趣味だった気がする。
としまってのは結局女子高生とか女子大生に向かってた気がする。
これをロリコンってのは絶対おかしいと思うんですよ。
僕より年上だから。
だけれどもその年齢が逆転していくわけですよね。
自分自身の方が年が上がっていき、
で、なるべく若い対象のまま抑えていく。
どうしてかっていうと、そのまま行くとやっぱりお母さんになっちゃうからなんですよ。
そういうふうに私は捉えるんですよね。
そのいわゆる年下に向かうという気持ちがどうやって芽生えさせるか。
で、上昇していくにつれて不正的なものって上がってくるんで自然と。
ここで合流してくるんですよ。
母親に言っているはずのものなんだけれども、
むしろ娘に言っているような感覚というものに少しずつ接近していくことで、
だんだんだんだん対象年齢が自分と同世代より少し下みたいなところに向かうっていうことがここで起きるんですよ。
僕はこれは女性ではどういう流れになっているのかがよくわからないんだけど、
女性の場合はわからないな。やっぱりよくわからない。
少なくとも僕はペニス戦法っていう言葉はおかしいと思うんですよね。
そういうことよりはやっぱりどっちかというと権力志向みたいな方が妥当な感じがします。
この場合権力志向っていうとやっぱりいかにも過不調性みたいな話になるのかもしれないんですけど、
権力志向ってそういうことじゃないと思うんですよ。
自由にやってみたいみたいな。あるじゃないですか。
例えばファミコンのゲームとかにもプロ野球の監督になるみたいなのがあるわけですよ。
あんなものは女性だから慣れないみたいな話と違って普通の人間は誰も慣れないわけですよ。
私だってプロ野球の監督になったゲームってのをすげえしました。
中学3年から高校2年の頃まで実質だから現役で大学に受からなかった最大の理由は、
ベストプレイプロ野球、通称ベストプレイって呼ばれていたものをですね、
朝から晩までやってたんで、学校サボってやってたんで、だからダメだったわけですよ。
大学にも行けなかったわけね。
だけどこれは監督になれるゲームなわけですよ。
あるは信長の野望とかでね、あれ王様になれるゲームじゃないですか。
でもあれは確かに女性が慣れないというような課題はあるのかもしれないけど、
そうじゃないです。自由を欲しがってるわけですよね。
だって信長には慣れないじゃないですか。
男だって誰一人として、信長だけですよ、信長になれるのは。
だからそういうことでしかないと思うんですよね。
だいたい王様には慣れないじゃないですか、ほぼ誰も。
男だからといってほぼ誰も慣れないですよ。
なので議事的になるわけですよ。
それはやっぱりエリプス的なもんだと僕は思うんですけれども、
そりゃもうずーっとやってましたよね。
編督の決断とかもずーっとやってました。
だからお父さんになりたい願望というのは、
家でお父さんにすら慣れないときにやっぱり強烈に発揮される。
現に家でお父さんになってしまっている今は、
シミュレーションゲームをやろうという気が一切起きませんから。
一切起きません。もちろんこの歳でやってる人だっていらっしゃると思うし、
面白いと思うんだけど、僕はもう全然、
戦国シミュレーション、それこそベストプレイプレイ級ですらですね、
そんなね、吉井監督が組む打順と違う打順でろってのをやってって面白くないですよ。
わかんないけどね。面白いのかもしれない。
でもピンとこないというのが本当のところですね。
これはやっぱり私が本当にお父さんになってしまって、
別に家族の中で自由に何も栽培できていないっていうか、
ほとんど今日も朝ご飯作ってお弁当作って車で運転して送ってたんですけど、
ここのどこに自由があるのかという。
自由があるんだったら寝てますよ。間違いなく。
今もめちゃくちゃ眠いんですけど、自由があるんだったら寝てます。
自由じゃないからやってるんですよ。
だからお父さんになったら自由に何でもできるというのは全く幻想で、
それはもう当時高校時代からそう思ってました。
自由自在に野球選手のオーダー組んで自由自在に栽培できるんだったら苦労はないですよね。
ケースによっては選手が反発するとか、命令聞かないとかサイン無視するとか、
そういう話あるわけじゃないですか。裏話みたいにしょっちゅう。
監督の言う通りに選手が操り人形みたいに動くわけがないんで、
自由なんてのはほとんどないんだと思うんですね。
王様になろうと信長様になろうとね。そういうことではないんだけど、
抑えられていれば自由だなって思うわけですよ。
うちの親父見てて自由だとは思いませんでしたけどあんまり。
でもやっぱり思うわけですよ。
抑え込まれていて朝から晩まで溶けもしない二次法定式とかばっかり死ぬほど溶かされてれば、
やらなくていいだけでもすげえ自由だと思うんで、
そういう抑圧ってあるわけですよ。
だから実態としての父殺しみたいな話になるんでしょうけれども、
やっぱり僕はそんなことはありえないと思うんですよね。
だって当時からやっぱり知りませんけど、
宝石とかもあったのかもしれないけど、
僕は別に国会議事堂に行ってなんか爆発物だみたいに思ったことは一回もないですよね。
僕はないですよね。
だからそれは体制順応的ってことになるんでしょうけど、
でも対象に対してはそうではない。
父母に対してSM的だったのは小学校の頃のピークでしたけど、
ありましたよね。やっぱりね。
あるというふうに思う。
うちの娘にはないかもしれないけど、あって意外な感じは僕だったらしないですね。
つまりそれは育てられ方だけでは決まらないとやっぱり思います。
そしてやっぱりそれはですね。
僕の成人妊娠恐怖はちょっとどうこしては言いましたけれども、
やっぱり母親対象に対するこれは思いなんだっていうのが、
はっきりこれもわかりませんよ。
デタラメかもしれない。
でも私はそういうナラティブを僕に明快にしてみたわけですね。
そうすると知恵はしないけれどもほぼない感じになってくるわけですよ。
年上女性との関係性
まして一番怖かったのは年上女性だったとしてですね。
年上の女性が怖いという感じはもう抱かなくなったんですよね。
実体としての母はもう全く怖いってそういうもんではない。
対象としての母というのはもう実体とかけ離れて50くらい若い対象になっちゃってるんで、
正直もうある意味心の中にあるなっていう感じしかしない。
ある意味どっちでもいいというか。
もちろんわかりますよ。
その影響がゼロになったわけではない。
存在している以上はですね。
でもなんかやっぱり違う気がするんですよね。
これのみが罪悪感を作り出すわけではないですし、
そうですね。
私は少なくとも一点確実に言えるのは、
母を許さずともミソジニーというものとは縁が切れるってことはあり得るような気がする。
実体としての母とかでなくても。
憎むっていうのはまして、
実体としての母を本気で憎んだってことは、
これもどうだかわからないですけどないと思いますね。
対象はあります。
母親対象を本気で憎んだとか、
バラしたいみたいに思ったことはあります。
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