2020-09-03 36:26

【GMV 218】先送りしないために

物事や自分に破滅的な意味をつけない
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おはようございます。グッドモーニングバイブスです。
今日はちょっとですね、いつもとちょっと趣向を変えて、先送りのしないようにする方法みたいな話を、私の割と得意分野だったわけなんだけど、最近こういう話はトントンしてないような気がするんで、ちょっとしてみようかなと思いました。
で、グッドモーニングバイブス流に言うならばですね、先送りするときに私たちが思うところってのは、意味づけ、これに尽きるかなと思うようになったんですね。
要は単純な話でして、これをやるのは面倒くさそうだとか、時間がかかりそうだとか、うまくできなさそうだという思いというかイメージが、何かを実行するに際して先行してしまうんですよ。
例えば、何でもいいんですよね。例えば確定申告とか、考えただけでも先送りしたくなるっていう人がいるじゃないですか。
その人の頭の中ではそれは客観的な事実になっちゃってるんですよね。
考えただけでも先送りしたくなる誰もがっていう感じなんですけど、そうじゃない人もいるわけですよ。
そうじゃない人は頭がおかしいように感じられるかもしれませんが、別にそんなこともないわけですよね。
つまり、そこに客観的な面倒くささとかはないわけです。
多少は面倒くさいのかもしれないけど、結局それは頭の中で作り上げている面倒くささであって、
つまりそれはそういう意味をつけなければ、そういうふうに意味を確定させなければ面倒くささ自体が消滅するんで、
多分、危機としてということはないにせよ、なんということもなく手がけられるものなんですよね。
私がそのことを一番知ったのが、私自身にはあまり関係ない言葉だったんですが、
風呂に入るのが面倒くさいという人が、私の知る限り、私が相談として寄せられた限りで、
5回あって少なくとも、5人の人が風呂に入るのを先送りにしてしまうって言ってたんですね。
私には到底理解できなくて、っていうのは私は風呂入るの趣味みたいな人間なんで、
なぜこれを先送りしたくなるのか、さっぱりわからないと思ったんですね。
ある人が言うには、女性というのは化粧のことがあるから風呂が面倒なんだと言うんですね。
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その人に、いやいや、温泉に行くとかは、銭湯に行くとかでもそうかもしれないけど、
自宅で、その人一人暮らしだったんで一人で暮らしていて、
そのお風呂入る前とか後に外出がないならば、化粧関係ないんじゃないんですかと言ったら、
ああ、って言うんですね。
で、いらい風呂に入るのが面倒くさくなくなったんだそうなんですけど、
まずこういうことがありますよね。
それをやるに際して、時々関わってくる面倒くさいことがいつも関わっているような錯覚をしているというケースが実に多くてですね。
子どもの勉強が割とそれにはまっちゃってるかわいそうなお子さんもいて、
勉強をするときに時々親に怒られるとか、時々計算ですごい複雑なことをさせられて疲れたというのが、
あらゆる科目の宿題にかかってきちゃっていて、勉強というものがとても面倒くさく感じられるという人っているんですよ。
それと似てるんですよね。
で、また別の人はですね、つまりお風呂に入る面倒くささって万人共通じゃないんですよね。
面倒くさいよねって言ってるときはみんなうんうんそうだよねって思うんだけど、
実はですね、面倒くさい理由は人によって様々で、
ある人はですね、シャワーを浴びるときのあの独特の音が嫌だ。
これはね、もう全然お風呂の面倒くささとは違う話になっていたんですね。
すでにその人は服は脱いでいるわけじゃないですか。
だから脱ぎ気の面倒くささはその人に一切関係なかったんですよ。
シャワーのパシャパシャという水の跳ね散らかるときの音がですね、
人にラジオの声みたいな感じがするっていう意見があった。
じゃあこれはですね、もっと深刻な問題だなと正直思って、
なんか現状に関わるような話なんじゃないかと。
ただですね、私これ再現できたんですよ。
まだマンションに暮らしてたときなんですけど、
シャワー浴びててあれ?ラジオの音がするみたいに思った。
非常に不思議なんですけど、
ジーっていうちょっとした独特の低音みたいなものと
シャワーが体に当たる音が独特の反響の仕方をすると、
確かに隣でラジオの聞き分けられないモニョモニョって
ラジオの人が喋っているような音に聞こえるときがあったんですね。
こういうことだな、きっとと。
それも女性だったんで、気持ち悪いと。
まあそうかもなと思ったんですね。
これもお風呂の面倒くささにその人はカウントしているんだけど、
全く関係ないとも言えなくもない。
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関係なくはないけれど、
まああんまりお風呂が面倒くさいというのとは違うよねと。
そういう音に関しても、
そういう音がしうるということがあるのが一つと。
湯船に浸かるときはないよねという話をしたら、
ああって言われたんですよね。
いや、つまりそういうことなんですね。
整理して考えるというのは大事だなと。
で、何人かの相談を受けて、
お風呂が面倒くさくなくなっていかれた方がいらっしゃって、
まあそれはめでたいんですけど、
要するにですね、
面倒くさいというのは様々あると思うんですけど、
それは先送りする理由としては本当は存在していないんですね。
あくまでも意味がそこについたわけです。
脱ぎ着とか化粧とか全部そうですよね。
常にそれに伴うわけではないものが伴ってしまうとか、
シャワー中の音とか、
それはもう隣人が覗いていれば気持ち悪いに決まっているので、
お風呂の面倒くささではないですよね。
そういう台所でトントンやっているときに、
他の男が見ているとかはいいのかダメですよね。
だからそれはお風呂の面倒くささではないわけです。
で、最近非常に驚いたニュースを目にしたんですけど、
ちょっと性格じゃなかったらごめんなさい。
あのね、母親が亡くなった?
それもかなり高齢の方なんですけどね。
なんだけど、面倒くさくて通報してなかったと。
つまりそのまま亡くなった母親と一緒に暮らしていたか放置していたかって話を見て、
いやー先送りってすごいなと。
普通そういうときに面倒くさいと思ったのか知りませんが、
発達障害的な話なんですよ。
で、役所に一度だけ電話をしたと。
だけどそのときはすでに役所監視やってない時間だったから電話に出てくれなかったと。
で、その後通報するというか伝える機会を逸し、
そのままズルズルと逝ってしまったというニュースになってました。
これはですね、すくずく思うんですけれども、
人生の中であらゆることが重荷になっていくというのは、
僕は一つの精神障害なんだろうなとは思うんですね。
だけどどんなことであれ、出だしはやっぱり意味付けなんだと思うんですよ。
それが確定申告であれ、お風呂であれ、
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身内の死亡を通告することであれ、
それは確かに面倒くさいかもしれませんよ。
ただ普通はそういう心情にはならないわけですよね。
そういう心理状態にはならないと思うんですね。
私なんかだったら確定申告に関することでも、
追徴されても構わないから放置するという心理状態には決してならない。
それはですね、やっぱり少なからぬ人、
いや、滅多にいませんけど、
ゴミ屋敷ってあるじゃないですか。
要は特に可燃ゴミですよね。腐りますからね。
あれを出す機会をいちいちにすると。
カーキンであるところの朝ですよね。
いつも間に合わないと。
一つしかも面白くて、
収集者が行った5分後に出そうとしたんだけど出せなかったみたいなことがあります。
なんでそんなタイミングを一時するのかというぐらい、
一時しない人間からするとやや不思議な行動ですよね。
5分前に出せるようにできるだろうにって思っちゃうわけですよ。
多分ここには大きなイリュージョンがあって、
例えばゴミは汚いとか臭いとか、
それらをまとめたりする手間を考えると、
放置している方が安定ですかね。
恐ろしいから放置してしまうって感じなんだと思うんですね。
どう考えてもやっぱり天秤付き合ってないけど、
まあまあでもお母さん死んで通報しないのに比べればね、
それはまだまだずり合ってるとは言えます。
特に確定申告なんかなんですけれども、
あれはもう本当多分そういういろんなことがあると思うんですけど、
一つは手書きをするとかいうことに対する意味付けがある。
手で文字を書くのはいいや、こういう人いっぱいいますよね。
自分の字は汚いということもあるし、私もそうだけど、
そもそも手が疲れるとか、
これも多分学校時代に培った一つの意味付けなんだと思うんですけどね。
自分の名前書くぐらいで手は疲れないと思うんですよ。
そもそも果たして確定申告に際して、
特に何ヶ月か前かの領収書とかをまとめるにあたって、
果たして手で文字を書く必要があるかというとなかったりするんですよ。
ここにも意味がついているんです。
それは手書きを要し、手書きはめんどくさい、
手が疲れるとか痛くなるとかそういうやつですね。
あるいは数字が出てくる。
これも数字と計算をごっちゃにするという意味付けが
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とても横行している気がするんですよね。
今、電卓もパソコンもあるんだから計算はする必要すらなかったりするじゃないですか。
数字は出てきますよ、もちろん。お金なんだから。
計算が果たして出てくるのかと。
計算と数字が一緒になっているんですよね。
これもお風呂と化粧がセットになっちゃっているのと似ていると思うんですよ。
別に常にセットなわけじゃない。
レシートを集めておくこととは数字は絶対目にすると思うんですけど、
計算することは違いますよね。
計算しなきゃいいわけですよ、計算がめんどくさいなら。
そもそも計算がめんどくさければiPhoneとかにやらせればいいわけじゃないですか。
自分がしなくても。
どこかここにはですね、本来しなくていいものを勝手にそこに積み上げていって
それに圧倒されるという。
これもゴミ捨ての時にもよく起こる現象ですよね。
だって手が汚れるとか、それは手を洗えばいい話だし、
匂いがするとかだっていうのも、これも落ちてればするほど匂いはするのだから
理由になってはいないんですよ。
その時の大変さを過剰に解釈している。
私もでも分かる気がするんです。
例えば段ボールのゴミをまとめる時とか、可燃ゴミを出す時に、
雨が降っているとすごい嫌だとか思うことがあるんですよ。
いやいや、水気だこれはとすぐ思い直すんですけど、
それはこの言葉を知っていることの一つのアドバンテージかなと思います。
何が意味付けかって、なぜ雨が降っていると戦争に行くような感覚に陥るのか。
汚れるかもしれませんけどね、手足が少々。
それが本当にそんなに深刻な被害をもたらすかというと、
そういうことは絶対ないわけじゃないですか。
傘を刺すということもできますしね。
傘を刺しながらゴミ袋にこもつというのはかなり厄介なので、
そういうことが余儀るんですよ。
でも明らかに意味が多くつきすぎている。
普通に言うと私が何が思い出として嫌かというと、
思い出なんですよね。
多くの場合、意味付け、イリュージョンというのは記憶と関わっていて、
私は学校に傘を刺しながら、
小学生ってなんか妙にでっかい荷物も出されますよね。
時に登校班に嫌なやつがいて、余計なちょっかいを出してくるというのに、
精神的にストレスをかなり覚えた時期があった。
それを思い出す。
それって一体何のために脳がそんなことを思い出しちゃうのか知りませんが、
今から40年くらい前ですよ。
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しかも全然シチュエーション違うじゃないですか。
学校に行くのとかゴミを出すのとか。
そういうことなんだと思うんですよね。
意味付け、イリュージョンで私たちがエネルギーをそっちに取られてしまう。
多分よっぽどお風呂に入るのがめんどくさい人にしてみると、
お化粧落としてお風呂入ってまたし直すというのがもうよっぽど嫌なんだと思うんですけど、
そもそもそれを伴ってない時に、なぜそれをやる心理負担を思い起こしてしまうのか。
何の意味もないだけでなく、全然リアリティもないわけじゃないですか、本当は。
例えて言うなら、それはどこかに行こうとしている時に
重い石を背負っていくのは辛いということを想像して勝手に辛くなっているようなもので、
なぜその重い石を持ち歩くことを考えてしまうのかというと、
多分そういうことをした記憶が蘇ってくるだけかなと。
これがあらゆる先送りにほぼ確実に関わっております。
私の聞いたところでも、私自身の先送りを思い出してみても、
先送り、私自身の思想になるたびにそれを記録に残しておいては、
先送り論に活用しようとしているんですけど、いつも同じですね。
例えばよく言う、完璧主義者が先送りするって件でも、
これを完璧にしようとするから先送りするんですけれども、
そもそも完璧にしようというのが完全に意味付けですよね。
完璧という意味付けが一つあるし、完璧にしなければいけないというのも意味付けですし、
自分は完璧主義者だとかいうのはほぼ論外と言っていいと思います。
何を言わんとしているのかというと、要はその仕事における満足を完璧に置こうとしているんですね。
例えば部屋を片付けるということと、部屋を完璧に片付けるということにどういう違いがあるのかというと、
私が満足するように片付けたいというのは意味でしかないと思うんですよ。
昔そういうことを編集さんに言われたことがあるんですよ。
完璧主義者が部屋を完璧に片付けたいと佐々木さん書くけど、
この完璧に片付けるということと部屋をきれいに片付けるということは一体どう違うんですかと言われて、
すごい説明できないということに思い至ったんですね。説明できないじゃないですか。
部屋を完璧に片付けるというのは、そうやってパッと書いておいて、
万人が思い浮かべることは完璧とそうでない部屋の片付けをどういう区別をすれば
全ての人が納得できる完璧な部屋の片付け方とか、ないですよね、そういうものは。
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それは個人が勝手にそう思い込んでいる何かであって、
ある人が部屋を完璧に片付けましたとしても、それにツッコミを入れようと思えば、
誰でもいくらでもツッコめますよ。
完璧にというのはつまり、私の基準としてこれ以上ないくらい満足したいと。
これはですね、なるほど先送りするに決まっていますよね。
それはそれをしたくないと言っていることと何ら変わらないと思うんですよ。
この仕事はしたくない。でも、私が完全に満足にいくようにやれるならしたいってことじゃないですか。
というよりも、この仕事をするのは全然楽しくない。
でも、この仕事が完全に満足のいくような仕方で終わったのを想像するのは楽しい。
当たり前ですよね、そりゃ。
まるで野球の試合をやってですね、テニスとかのもいいな、個人だから。
テニスで普通にやって負けるのは面白くないけど、
相手をゼロスコアで抑えて完全に勝てるならば楽しいみたいな、そういう話ですよね。
これは先送りしますよね。
私も長らく完璧主義だと先送りするって話を書いてきたんですけど、
そこにはパーソナリティの問題等々あるんだけど、
突き詰めて言うとこういうかなり、言ってしまえば子供らしい意味付けをしてしまう。
しかも全ての子供がここまで勝手なことを思い描かないから、
これは独特の肥大化した自我ってやつなんだけど、
そういうものがあると思うんですね、完璧主義なるものには。
普通に考えれば、完璧かそうでないかという基準ははっきりさせられないので、
そういう意味ではですね、実は何かをやりたいと思ってやってる時っていうのは、
とても正しい形容詞でできてるんですよ。
私の場合、絶対先送りするつもりになれないものとして、お風呂あるんですけど、
私がお風呂に入る時、形容詞は一個も入らないんですよ。
完璧にお風呂に入るとか、全然いらないですよね。
意味を付けないというのは、実は非常に自分にとって都合のいいやり方を取れるってことだと思うんですね。
物を食べたがらない子っているじゃないですか。
あれはですね、気に入るように食べたいってことなんだと思うんですけど、
そこに意味が過剰にくっついてるんですよね。
おいしくないものを食べて嫌な思いをしたとか、
お腹がとってもいっぱいになって嫌な思いをしたとか、
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思い出さなければいいようなこと。
避けようと思えば、おそらく簡単に避けられることを全部勝手に背負い込んで、
食事にそれを全部適用してしまう。
わかりますよ、非常に。
例えばですね、今あんまりないと思うんですけど、
昔はひどいもんでして、給食を残さず食べなさいって先生が必ずいたんですね。
1学年に1人ぐらいは。
その先生がなんでかスイッチが入っちゃうと、
掃除の時間でもあなたはこれを終わるまではダメだとか、
昼休みになっても食べさせられて、
挙句の果てには5時間目になってもその子の食卓には、
おそらくテーブルには給食があるわけですよね。
どう考えても、私給食残したことが6課年で1回もないんですけどね。
その私でも口にしたくはない状態に見えるものが乗っかってるんですよね。
その子泣いてるんですよね。
でもその子も大変強情だなと僕なんか当時思ったんですけど、
いや、これ食っちゃったほうが楽になれるんじゃねえかと。
どんなに嫌であるにせよ、食わないですもん。
最後まで食べなかった。
先生も最後には一杯お説教して帰るわけですけど、
その時も残ってた記憶があるんですよね。
あれはある意味すごいな、お互い。
戦争で一歩も引かない状態ですよね。
このイリュージョンたりはなかなかなもので、
その子が少なくとも給食を食べるということに対して、
心に重荷を背負うのは当たり前っちゃ当たり前ですね。
やっぱりそういう時に余計な形容詞をくっつけるじゃないですか。
きれいに残さず食べましょう。
私そういう風に食べたことはないです。
残したことはないけど、きれいに残さず食べるとか、
それは完璧に片付けると同じで、
意味がない形容詞だと思うんですね。
人によって捉え方がまちまちなので、
別に自分はきれいに食べたわけじゃないですしね。
要するに欲求っていうのは、
あらかじめ形容された状態に持っていくために、
発動されないものなんだと思うんです。
この言い方はちょっとややこしかったですね。
でもきれいに食べようなんてしないじゃないですか。
育ちがいい人がきれいに結果として食べるのはわかりますけど、
食べたいから食べるわけですよね。
このように食べるとか、あのように食べるって食べ方はしないと思うんですよ。
うまくやれることほど、簡単にやれることほど、
きれいにお風呂に入ろうとかって思わないですよね。
面倒くさく感じる人ほど、何か形容詞をここに持ってくるんですよね。
それが意味付けだと思うんですよ。
たぶん確定申告なんかもそうで、
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こなれている人ほどですね、形容詞くっつけずに、
非常にマニアックなことを始めると思うんです。
それは動詞ですよね。
ここをこう計算するとか、こういう分類でいくとか、
全部動詞ですよね。
完璧に確定申告を今年こそやろうとかいう人はいかにもダメそうですよね。
今年もダメだろうな、この人って思っちゃいます。
その瞬間。
それはなんだろう。
この形容による、こういう形容詞が結果としてもたらされるようなやり方じゃなければ、
私はしたくないっていう宣言に聞こえるので、
当分しそうにないわけですよね。
なんかこうですね、結果としての形はやっぱりやってみた後でしか出てこなくて、
それを先行しておいておいて、そういう結果になるように持っていこうとすると、
そこでつまずくことになると思うんです。
たぶんこれは皆さんすぐ分かっていただけると思うんですけど、
例えば、完璧なブログを書き続けようとか言ってる人がいたら、
たぶんこの人ブログすぐ挫折するだろうなって気がするじゃないですか。
きれいなブログを作ろうとか、なんか違う気がするんですよね。
こういうことがいろんなことについて発生しがちで、
だから何をするにしても先送りするという時に出てくるのは、
やっぱり意味づけだと思うんですね。
不安になるということ。
意味がつけられているから不安になるし、
完璧にやろうとするという意味づけですよね。
あと自分は無気力であるという奇妙な意味づけ。
これはたぶんいろんなことにかかってきちゃう。
それこそ最悪の場合は身内が死んでもそれを通報するのもおもにだみたいな。
おもにですよ、それは。
でもそれは私たちは何も考えなければ自然とそういうことはできる気がします。
それがそのままに圧倒されて動けなくなるということは、
自分が無力であるということの、無力であるという意味づけがですね、
あまりにも強烈で動けなくなっちゃうんでしょうね。
だって無力であるということは動けないか、動いても失敗するという、
そういう未来の予見が、予見というのかな、
そういう未来が自己実現しそうな雰囲気がありますよね。
あの人、借金玉さんが書かれた発達生涯のすごい衝突術。
あの冒頭で、税を払いに行けなくて追徴金を取られるということが分かっていたけれども払いに行けなくて、
結局追徴金を取られるまで払わなかったエピソードが書かれてましたけど、
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なんかもう、まさにこういう感じですね。
予言の自己実現というのはこの文脈ではちょっと違うんだけど、
そういう付けた意味を自分で実現していかなければいけないような、
そういう思い込みの中に入り込んでいる感じがします。
めんどくさいとかいうレベルではないような気がするんですよ。
現にその人は追徴金を払ったわけですから、払うことになるだろうというような予見をして、
そういう予見をするばっかりに払っていくんですよ。
なんかこう聞いてるとスピリチュアルみたいな感じがすると思うんですけど、
そうじゃないと思うんですよ、これは。
あの、ちょっとですね、ちょっと違うんだけど一番近いのが、
ホラー映画とかでわざわざ見に行くじゃないですか。
ゾンビの出てくるところみたいなところ。
あれは現実じゃないですけど、私たちはああいうところがあるじゃないですか。
怖いものが、それが破滅的に恐ろしいということを確認しに行くために、
そういう現実に近づいていくみたいな。
多分黙って払うのも怖いんだと思うんですよ、大金だから。
これは言いづけなんだと思うんですね。
払える金額になってるはずなんで一応、日本の消得税は。
昔の中国のあれじゃないんで、
お金も全くないのに払えないから鞭打ちされるみたいな、
そういう世界とはちょっと違うと思うんで。
払える金額だと思うんですけど、払える払えないに関わらず大金じゃないですか。
大金を使うということに対する恐怖感というものをつけちゃってるケースって少なからずあると思うんですね。
それはやっぱりご両親の恐怖感をそのまま伝えられてしまったんだと思うんですけど、
私もちょっとあるんですよ。母がそういうところがあったんで。
大金を使うということ自体に罪悪感があるんですね。
で、払えない。そもそも払いたくないものですしね。
ここで変な感覚が起こると思うんですよ。
これを払うということは破滅である。
これを払わないということも破滅である。
だから破滅的な感覚を持っているときに、
ようやく払うという方向性が成立するみたいな。
ゾンビに近づいていくような感じでですね。
追求金という言葉はなんとなくしっくりくるじゃないですか。
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払わないでいるからペナルティーがあるんだけど、
払うことはそもそもその人にとってはペナルティーなんで。
大金を使うということがペナルティーなんで。
私の友達にですね、かつて非常に困ったというか変わった、
ちょっとかわいそうな方がいらっしゃっていて、
パソコンとか買うとき、あるいは他のどういうものでもいいんですけど、
ガキとか買うとき、絶対しくじるんですよね。
あれとすごい似てるなと思ったんです。借金玉さんのように。
やっぱりその人も大金を使うことに対する罪悪感が強いんですよ。
お金が昔なかったのかもですね。
とにかく大金を使うということになると、過剰に神経質になってしまって、
結局ですね、気がつくと悩みに悩みに悩む。
なんかもう気持ち悪くなるくらい悩むらしいんですよね。
悩みに悩んだ挙句、ろくでもないものを必ず買うんですね。
パソコンとかでもその人が一番好きじゃなさそうなパソコンをわざわざ買ってきて、
やっぱりろくでもないわけですよね。
楽器でもその人が一番文句言っていたようなものをわざわざ買ってきて、
やっぱりろくでもないんですよね。
なんかその人の中ではお金をドブに捨てるということに対する恐怖感がものすごく強くて、
で、ドブに捨てるんですよ。
なんとなくわかる気がするんですよ、これ。
なんかね、スピリチュアルみたいに嫌なんですけどね、
上手に説明できないといけないなとは思っておりますが、
多分こういう心理は働くんだとは思うんですね。
ドブに捨てるという使い方でなければ大金は使えないみたいな、
そういう、ある意味そうなんですよね。
人って自分がイメージした現実に持っていきたいというところがあって、
異常心理学の一つにこういうのがあるんです。
血を見るのが怖い人は、
この話前もしたことあると思うんですけどね、
血を見るのが怖い人は、なるべくたくさん血を見る。
非常に変なんですが、確かにそういうビデオで見たことがあって、
何か機械を捉えては流血シーンを見ちゃうんですよ。
生物のビデオとか、そういうのでですね。
で、倒れるんですね。貧血を起こすんですね。
その人は明らかに流血シーンが嫌なんですが、
明らかに普通の人よりも流血シーンを多く見る機械を自分で作り出してるんです。
そういう心理研究があって、
あれが一番近いと僕は思うんです。
だから、実現しえないような意味付けを何かに持っちゃうということは、
それを実現しえないということを意味するじゃないですか。
非常に良くないですよね。
追徴金を取られないで住民税を払うということはできないんですよね。
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追徴される方が罰則感がより強まるので、
ある種のテンションの高まりとともに、やっと動けるようになるみたいな。
もちろんこれ以上取られたくないというのは当然働くとは思うんですけど。
なんかそういうようなものを感じる時があります。
人間関係で破壊型の人をやることもこれと近いですけど、
話が先送りから反れていってますけど、
先送りっていうのは結局ニュースの事例もそうですけど、
その先に破滅が待っていると思うのが一番いけないんだと思うんですよ。
いやいや破滅待ってるでしょって言われるんですけどね。
私そう言われることが何度かあったんです。
こういう先送りの本を書いてるんで。
だってずっと先送りしていたら仕事を失うし、ずっと先送りしていたら追徴金取られるし、
ずっと先送りしていたらゴミ屋敷になっちゃうし。
それをまさにそれが意味付けでありイリュージョンであるということに気付ければ話早いと思うんですけどね。
つまり今そうなってるわけじゃない状態で、
それを考えるということの意味は、
もしあるとすればそのような現実を招き寄せる以外はないと思うんですね。
だって先送りしない限りそれは現実のものには決してならないのに、
わざわざそんなことをいろいろ考えてあげく、
先送りする自分という非常に危険で頼りなくかつ破滅的な自分をイメージするわけですよね、自分の中に。
これほど余計なことはないと思うんですよ。
東京無職日記という漫画、前もご紹介しましたが、
それの一番最初の一つのコマがそういう感じで、
まさにずっと破滅に向かっていく自分をワンショットで切り取っている絵があるんですけども、
まさにそういうものですよね。
なぜそれを自分にそういう意味付けをするのか。
しなければ多分そんな現実は決して起こらない。
だって払いに行ってゴミを捨てればすぐ話なんで。
お風呂に入ればいいわけですよ。
そういうことなのかなと。先送りというのは。
だからどんな意味をつけているのか。
ただ必ず最終的には自分は先送りをして破滅するんだという意味をどこかに含んで、
そのことに強い不安を同時に覚えているというのがあるはずです。
それがなければ多分先送りって決してしないわけですよ。
意思力が弱いとかそういう話をしたがるんですけど、
そういう不安をわざわざ自分で抑えておいて、
それを乗り越える克服力とかいらないんですよ。
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現に私はお風呂に入るのは何一つ克服していません。
食事もむしろそれをせずに進むという努力の方をしているぐらいで。
だから意思力がなければ克服できないものを抱えている時点で
何かがおかしいというふうに捉えるのが自然かなとむしろ思っています。
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