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おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
繰り返し同じ話になっちゃってますけど、今週の土曜日ですね。
グッドバイブス勉強会があります。
オンラインなので、どこからでも極論外国からでもご参加いただけるし、
お値段も、多分外国に在住していても躊躇されるほどの金額じゃないと思いますので、
イリュージョンを手放すというテーマですね。
これ、イリュージョンってなんだっていうところもあると思うんですけれども、
要は夢はイリュージョンですね。
明らかに夢というものは実体がないと。
ただ夢ってほとんどの場合、記憶したものですから、夢を見たという覚えがあるだけであって、
本当に夢を見ているかどうかの証拠が全くないわけじゃないんですけど、
REMがありますからね、リピットアイレン。
リピットアイレン、目の動きがやたら速くなっている時もあるんで、
でもそんな証拠をつかんで夢を見たと思っている人はいないと思うので、ほとんど。
夢がイリュージョンですね。
起きている時も夢を見ているのとそっくりの状態に、
これは自分もよく思うんですけど、イリュージョンってそっくりだなと思う時があって、
そういう状態をグッドバイブスでは手放すと。
少なくともそれが望ましくない結果を招くなら手放すと。
手放して差し支えのないものだというような考え方があります。
例えばあれですね、このLINEで怒っている相手を放置していると、
襲ってくるんじゃないかとかいう夢を見ますね、私たちは。
それは実態がないですね。襲ってきていないわけですからね。
夢を見ているわけですね。この夢を見る必要が果たしてあるのかというような話。
この時に僕らは軽い恐怖を覚えていると思うんですよ。
ずっと既読スルーしている恋人なりがいて、このまま行くと別れることになるんじゃないかという夢を見ますね。
これも恐怖がありますよね。
今朝ですね、庭に出るとうちの庭にセミがいるんですよ。
飛んで来たり、飛んでくるんですよね。飛んで行くんじゃなくてね。
軽い恐怖を覚えるんですけど、その時ふと思ったのは、
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恐怖を覚えている時というのは相手に対するそこはかとない軽蔑があります。
ウッドバイブスでも同じような話がないわけじゃないし、
これを言い出すとちょっとややこしいことになりかねないので、あんまり言われていないんだと思うんですけどね、プラゾノさんは。
精神分析にははっきりと、というかフロイトはそういうことを書いているんですよ。
あの人はそういうことをいかにも書きそうな人ではありますね。
例えば私はセミということを非常に知的だとは思っていないわけですよ。
思っていれば、外に出た時に僕に向かってくるはずはないわけですよ。
蜂とかも怖いわけですが、蜂怖いのはですね、蜂はバカだと思っているからなんですよ、結局。
だって刺しに来る理由は何にもないわけじゃないですか。
でもかかわらず刺されるかもしれないって思っているということは、そこはかとなく相手をバカにしているんですよ。
で、私たちが恐れている相手というのは通常このように自分にバカにされているんですよ、たぶん。
最近ようやく脱校して、なんとですね、本が出版されました。
自分も驚いたんですけど、まだ書類がないところか、書類の広範は僕の手元にはあるけど、まだあるんですし、
まだ初校も終わっていない段階で、すでに本が出るという登録はされていないんですよ。
本が出版されていないところか、書類の広範は僕の手元にはあるけど、まだあるんですし、
まだ初校も終わっていない段階で、すでに本が出るという登録はされていないんですよ。
結構早いんですよ。いいなと思うんですけど。
10月13日発売なのでだいぶ先日な感じですよね。
これから初校からやることを考えるとそんな先じゃないんですけどね、この展開は。
でも結構先ですよね。おくづけ日だからどうなのかな。
でも今って結構Amazonとかだと日付通りの発売になっている気もします。
10月13日なんですけど、その本つい顔色を伺ってしまう私を手放す方法だったかな、ちょっとそういうタイトルなんですよ。
HSP的な話、繊細さんというのが対象読者になっていますが、こういう方々のツイートを読んでいても思うんですけどね。
やっぱり恐怖感というものが、間違いなく恐怖感はありますよね。
人に対する恐怖。会社に行くと同僚なり上司なりが怖い。
家に帰ると奥さんが怖いとか、旦那が怖いとかありますね。
そこに微妙なケースもあればあからさまなケースもありますが、やっぱり軽蔑というのがあって、
私はそんなことじゃ起こらないけど、こいつはどんなことで起こり出すかわかったもんじゃない。
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アホだからっていう雰囲気があるんですよ。
で、世の中の人は全部面白いことに自分よりはほぼアホになっているんですよ。
で、これって同行してくるとすごい怖いですよ。
周りが蜂だらけみたいな感じ。
アホでも全然敵意がなければいいんでしょうけど、これも面白いなと僕は思うんですけどね。
敵意が感じられないときに、やっぱり怖いんですよね。
これも面白いなと僕は思うんですけどね。
敵意が感じられないときは、相手がアホっぽく見えなくなってくるんですよ。
でもこれは明らかにおかしいと思うんですよ。
例えば、ヘビとウサギさん、どっちが賢いか。
ウサギさんが賢いんだけど、そうするとですね。
例えば、植物と蜂、どっちが賢いか。
微妙な感じがするんですけど、植物って賢そうに僕にはそう映ることが多々ある。
敵意がないと。
穏やかな奴は賢そうに見える。
たぶんこれはですね、偏見も相当僕の性格を反映しているんだ。
間違いなくここには相当強い投影があって、つまりイリュージョンなんですよ、これ。
木が賢そうとか植物が賢そうなのは、有効的に勝手にこっちが見ているせいがすごくあると思うんですね。
しかもそういうのが好きっていうタイプの人間にしかこの傾向は出ないと思うんですよ。
蜂がアホそうとか蝉がアホそうなのは、害があるからなんですよ、きっと。
会社の同僚で嫌いな人って思い浮かべてみて、でもあいつはすごい表揚豊かで賢いっていうケースは少ないと思うんですね。
ものすごくレアな気がしますね。
思春期の子供って親はバカだと思ってるじゃないですか。
そろそろうちの子も思春期に近づくんですけど、
子が親がアホだと思うのは無理からぬことだと思うんですけど、
大体意外と思いっきりいろんな部分を比較すると、
そんなに親と子でこの方がはるかに賢いって考えにくいんだけど、
大体相当どんな子でも僕が見ていると知る限りですね、
頭の良い子はしょうがないとしても、そうでもない子でも親よりはるかに賢いと思ってますよね。
親は有害だと思ってるんですよ、非常にしばしば。
あの辺の精神状態というのは恐怖感というものとすごく関係があると思うんですね。
自分はそのことを最近思うので、恐怖の前にまずこの底はかのない軽蔑感を何とかしよう。
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結局これは、私はこんなことで気分を変えさないんだ。
こいつはいつ機嫌を悪くするかわかったものじゃないっていうところから来るんですよ。
非常に難しい状態に自分を置くじゃないですか。
家の中にいつ機嫌が悪くなるかわからない。
家の中でいつ噛んでくる蛇がいるかわからない。怖いじゃないですか。
でもその蛇が全く、これもこういう言い回しになっちゃうんですけど、本能任せで。
全く先の行動が読めないからアホだってことになるから怖いわけですね。
この辺にやっぱりイリュージョンがはっきりあるんですよね。
相手が理解力を持ってない。
時々農家のおじさんとかに何もしなければ蜂は育まないからとかって言われるじゃないですか。
子供はなかなかそんなことは信じられませんよね。蜂との付き合いは浅いんで。
だけどあれはつまり一定程度蜂の知力を信頼している証拠で、だからそういうことが信じられるんですけれども。
いや全くそんなことは信じられん。
あいつらはいつどこで何の理由もなくさせてくるかわかったもんじゃないと思えば思うほど恐ろしいはずなんですね。
こういうからくりがきっとありまして、本にはそういうアプローチでは書いてないんですよ。
このアプローチで書くとややこしいことになると言ったのは、やっぱり自分が怖がってるのに自分が軽蔑していると同時にこの部分を触れずに済ませるのはどうかと思うんで。
そういう感じのことは書いてはありますけれども、最初はそうは思いたくないところもあると思うんですね。
感覚としてはかなり一方的に本当に本能任せの愚かな奴に攻撃され続けているという感じを抱いていると思うので、
そのある種の自分がそういう意識でいるということがちょっとでも不快なものは、
これをプロイトはリプレスというか抑圧という表現じゃなかったと思うんですけど、
むしろ記憶の分離とか意識の分離ってあれは意味だと思うんですけどね、分離したと。
何ですかね、分離。難しいですね。
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多分パソコンピューター的な言葉で言うと、我々が散々精神分析では抑圧と呼ばれていると思っているのはアーカイブってやつで、
普通の記憶は精部なんだと思うんですよね。なんとなくそういう違いがある感じがしますね。
プロイトはその辺結構全意識とか言う、今ではほぼ無視されている言葉を使ったんですけど、
全意識っていうのは多分デスクトップに置くぐらいな感じかな。開いておくのかな。
開いておいてアクティブにしていないウィンドウみたいな感じですね。
精部が全意識なのかな。とにかく全意識というのは思い出そうと思えば思い出せる記憶っていう意味ですね。
だから内容変わるはずなんですよ。いつも全意識と同じとかでおかしいわけですよ。
無意識というのは思い出そうとしてもそうはできないと言っているんですよね。
だけれども作用はする。この辺がアーカイブと全く違うところで作用するんですよ。
力度を持って力を持つんですね。だから蜂が怖いと思っている人とか、蜂を軽蔑しているとかわざわざ意識しないと思うんですよね。
ほとんどの場合。無意識の力なんですよ。蜂はアホだという。そういう力が働いているんで何をするかこいつらはわかったもんじゃない。
こういう力が対人関係に及んでいると、物がわかっていない、何つらわかっていないから怖くて仕方がないという話にだんだんなってくると思うんですよ。
この時に無意識の方からそういう力が働いているんで軽蔑感あるんだけど、思いっきり軽蔑しているならそんなに怖がらなくていいじゃないですか。
この軽蔑感は何となくそこはかとなく働いていて、イリュージョンを作り出すのにやたら役に立ってくれるわけです。
こういう風に言ってみるとああ言われるとか、そういうことを簡単にイメージさせるときにこの力。よく考えてみると不思議じゃないですか。
私たちは想像したり妄想したりするのがごく簡単にできるような気がしているから、そういうかなり嫌なイリュージョンを作り出すのに何にも抵抗がないとでも思っているようなんですけど、そんなはずはないですよね。
例えばただただ怖いとかじゃなくてただただ気持ちの悪いものをパッとイメージしてくださいと言われても人は抵抗を持つと思うんですよ。
なんか動機づけがいるでしょうそれって思うと思うんですよ。なんかすっごいただただプロテスクなものをイメージしようと。
嫌だと思うんですよ。
じゃあなんで部長なり奥さんなりに言われるっていうのはそういう脳内シミュレーションをパッパパッパとやるかというと、そこにもうすでにモチベーションを持っているからだと思うんですね。
無意識の方から上がってくる力がその力を利用してそういうイリュージョンを作っているからこのイリュージョンは容易に作れる。むしろ手放すのが難しいという風になっちゃっているんだと思うんですよ。
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したくもない、そしてする必要も全く感じないようなただ嫌な想像をするというのは結構努力を要します。そういうモチベーションは用意されていないですからね。
この辺がかなり古典的な理屈なんですけど力道と呼ばれているもので、私はイリュージョンを作るということが実は容易だと。
むしろ止めるのが難しいぐらいに思っているというのは力がちゃんとそこに働いている証拠であってですね。
この力を手放すことができるとそれだけでもだいぶ、だってやりたいわけじゃないですよね。
これからお父さんとの交渉をするにあたって残られないようにするための脳内シミュレーションとか本来はやりたくはないと思うんですよ。
やらずに済むことが確実であるならばね。
この書のこといっぱいあると思うんです。先日僕脱校したばっかりだからこの書の事例をいっぱい思い浮かべて書いていたんですけど、本を書くからやるんであって実質的には嫌な作業ですよね。
だからこういうのって本当はですね、力度みたいなもの、力度じゃなくてもいいけれど、モチベーションがすでに用意されていなかったらそうそうやらないことだろうと思うんですね。
その意味でフットバイトスでも信頼ってすごい重要なキーワードとして出てきますけど、本当大事なんですよ。
今私は散歩中、すずめ橋が通ってもあんまり気にならなくなったんですよね。こういうことなんだなって思うんですよ。
万が一ということがあるという表現があるじゃないですか。今こういうご時世ですから当然そういう話もいっぱい出てきますよね。
そうなのかもしれないですよね。統計学とかそういう話からすれば。ただその話は数字の話であって、信頼の話とは別の次元の話だと思います。
これもう一つ一つ意識とかあるいは肉体とかいう話を加味していけばですね、だんだん恐れないということについて無理がなくなっていくんですけれども、
全部どれにしてもですね、話し聞いて即座にできるというようなのとはちょっと違うので、できない話でもないんですけどね。
例えば肉体ということで言うと、話を広げるから時間がかかるんですが、肉体ということで言うと、自分は最近常々自分の肉体に自分自身を投影しているという視点が一番正解だなと思うようになりました。
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だからやろうと思えば何でもできます。時間さえかければね。目の前のトマトの苗とかに自分を投影しようと思えば時間さえかければやれます。
やれるってことは投影なんだってことだと思うんですよ。自分はトマトの苗のような感じがするっていうふうにはなるんですよ感覚的に。
そんなに不思議な能力を使うことはなくても、車の運転中自分が車になっている人はいっぱいいますよ。
ある程度そうなれるようにならないと新ドライバーの時は擦ったりするのに止まらないんですよねきっと。
あれやっぱり擦らないようにできるのは投影しているからなんですよ。
そういう意味では自分っていうのを自分の肉体に投影しているんですよね。
これは必要だからしますが、それに体の方の感覚がフィードバックをかけてくるからしないでは済まないけれども減らすことは非常にできない相談ではなくて、
そうすると肉体が攻撃されていることと自分が攻撃されることは全然違うことになるので、
鉢に刺されるとかはむしろ避けるべきですけれども、断じてそうであってはまずいっていうことにはならないんですよね。
だって他の人だって鉢に刺されてほしくはないですけど、他の人が刺されると自分が刺されるのは全然違うじゃないですか。
でも自分が肉体に投影するということをしなくなればですね、そんなに恐怖感が湧く理由はなくなっていくんですよ。
他の人が刺されて同情するレベルまでは下がりませんが、その中間ぐらいのところまでいくんですね。
そうするとあいつらは本能任せだから何するか分からないという感覚が不思議となくなっていくし、
しかも実際にはそうではないということもだんだん見えてくるんですね。
万が一ということはあるのかもしれないけど、万に9999は多分何も起こらない。
そっちの方が見えやすくなってくる。
そういう視点を取るのに当たってこの種の考え方は、全部グッドワイルスですが、役に立つよという話です。