2022-07-04 34:53

【627GMV】移行対象としての手帳術

自立している人の甘え
00:05
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
今日はですね、チラホラといろいろと感想を耳にして、
まあ、しょうがないんでというのもあれですが、
めんどくさいんだけど、ここで情報整理大全の話をやっぱりしておこうと思いました。
まあ、してくださいねという話もファンマトさんからもいただいてるし、
あの、私こういうのは多分めんどくさがっちゃうところが良くなくて、
めんどくさいとつい思ってしまうんですよね。
で、それはまったくイリュージョンと意味づけ、本当にそうなんだけど、
でもそうしちゃうんですよね、ついつい。
で、それほど、まあ、実害あるのかな。
実利を減らしているという実害はあるのかもしれませんね。
まあ、そういったものがいろいろあるので、
ちょっとこの話を今日はしようと。
で、情報整理大全というのは今のところ6段まで出ていて、
その後、今深掘り仕事術というレーベルのものに転換したわけではなくて、
私は情報整理大全の第7弾、8弾も考えてはいなくはないんですが、
まあ、今は深掘り仕事術の方、つまり私との対談というのを中心に、
私がインタビューするって感じですね。
ノートを使っている人、ノートを使っている仕事術について、
何かしらのですね、こだわりのツールなりを中心に聞くことにはしているんですけれども、
そういった仕事術のインタビューをしているわけです。
で、第1弾と第2弾が出て、第1弾は情報管理ログさんですね、
第2弾が岡野淳さん、第3弾は宇野澄さんになる予定であります。
で、第4弾と第5弾も一応ラインナップはだいたい固まっているんですけど、
こうやってですね、第30弾ぐらいまで行けたらいいかなと思っているけど、
全然ラインナップが見えているわけではないし、
そんな先のことまではわからないんですが、
とりあえず長く続けていこうとは思っているんですね。
それで、まあまあこれいろんなご意見があると思うんですけど、
自分の中ではかなり上手くいっているなと思っています。
かなり上手くいっているというか、
もうこれで収益状況がすごく良ければ最高なんですが、
他の点では申し分なくやっている感じを持っていて、
これがですね、そうではなくてとてももったいない企画だという風に言われているのも、
まあわからなくはないんですけれども、
でも多分そうはならないだろうなというのが、
今日したい話なんですね。
つまりこれはどういうつもりで作っている企画かという、
03:01
こういう説明は私はめんどくさがるのがいけないんでしょうけれども、
めんどくさいんですよ、私に言わせれば。
本なんてよく重いって言われるんですけど、
重いは大事なんでしょうね。
でもなんかこう私は、
本は読者が面白くて役に立てばそれでいいじゃないかって思うところが、
自分の心の99%くらいがっちり締めてしまっていて、
どういうつもりでこの本作られたんだろうということに、
読者としてはあまり興味を持たない人間なんで、
多分そこを発信するというのが、
余計なことのように思ってしまうところがあるんで、
その仕事にこう気が乗らないんですよね。
やれと言われるからやるんですけれども、
気が乗っていかないというのは実際に相当強くあります。
あんまりおいしいと思っていない食べ物が、
うまいぞうまいぞって言われて食べている。
まずくはないんだけど、
別にそんなに食べる気がしない食べ物ってあるじゃないですか。
ないかもしれないけど、私そういう食べ物少ない人間なんですよ。
何でも好きで何でも食べるんで。
でも昔フォアグラだったかな、あれうまいって言われてたから食べたことが、
なんか贅沢な話してますけど、
なんかね、2度食べたいかって言われると、
多分もっとずっとうまいのを食べればよかったんでしょうけど、
なんか高そうじゃないですか、そういうのは。
話が飛んでますね。
情報整理大全化。
つまりですね、あれは、
なんて言うんですかね。
人はですね、私の思うに、
人が進めたノートなどというものを使う気には、
なかなかなるもんじゃないと思っております。
そしてノート術といったものもですね、
人がやったら素晴らしいというノート術をやりたいとは、
人は実はそれほど思うもんではないと思っています。
でもですね、読みたいんですよ。
だから私がノート術を作る時の本を考える時に、
一番意識するのはですね、
その人の自慢話に終始させるべきだって思うんですね。
どうでしょう、こんなに素晴らしいんですという、
それを読むのが僕らが好きだと思っているんですよ。
例えばだいぶ昔の話で野口雄強さんの、
彼は超整理手帳というものを作りましたし、
これが作れるというのがすごいですよね、あの時代では。
で、それを使って便利だという話も聞くんですけど、
私はあれ何回か買ったんですけど、
全然便利だとは思わなかったんですよ。
でも超整理手帳の本を読むのは面白いと思ったんですね。
こういうことを実現できれば十分だろうと思うんですね。
客観的に便利な手帳なり方法論なりというものは、
僕は存在しないんじゃないかって思います。
それは主観的なものであって、
でも私たちの中にはなぜかですね、
それを見たい、読みたいという気持ちがあるんですよ。
06:03
これ何なんだろうと思っていたんですけれども、
今日はそれの説明を試みたいんですね。
つまり情報整理大全を読んだからといってですね、
もしかすると、これも狙ってるんだけど、
もしかするとこれはすごい良い方法だっていう、
あるいはこれはすごいノートの組み合わせだっていうのを考え、
発見できる可能性も一応狙ってはいるんですよ。
でも私はそういうことは早々は起こらないだろうと、
万人にとなると、まず絶対そんなことはあり得ない。
だいたいそもそも、例えばですね、
手が不自由な人とそうでない人っているわけですからね。
で、その2つの差から考えても、
同じ方法が万人にっていうのはおかしいと思うんですよ。
例えば、左利きと右利きだという今ほどの差がある、
手が不自由じゃないという、
手が不自由というのは文字が書けないとは限りませんからね。
で、スマホで書くってなった時の不自由っていうのもまた
同じ意味じゃないじゃないですか。
だから万人向けっていうのはおかしいと思うんですよ。
全ての人に客観的に便利な方法というのはないんだけど、
にもかかわらず私たちはですね、
自分はこれを採用しないなと思いながら、
このノート術のこの話は面白いなと思うことはあるんです。
で、私はそういうもんだとノート術というものは思っているんですよ。
だからこそKDPに向いているし、
無料でバンバン読める、
無料じゃないんだけど、
アンリミでバンバン読めると、
非常に極端な場合、
私は目があんまり、目にちょっと難点があって、
ノート術というものは使わないんだという、
私はこの人を知っているんですよ。
人がノート術を読むんですよ。
その人はノート術なんて実行しないんですね。
でも読むんですよ。
これは面白いと思ったんですよね、話を聞いた時に。
絶対こういう需要がある限りは、
その人の観点で書いたものがいい。
私はオムニバス形式でこの種の話をやるというのは、
どうも一見すごく良さそうな気がするんですよね。
臨床の世界でもあるんですよ。
オムニバス形式でいろんな精神分析の人がやってきて、
こうだよね、ああでもない、こうでもないと議論をするのを本にする。
面白かったとは僕は思ったことがないんですね。
この中に客観ってないと思うんですよ。
ここにあるのは主観性でしかなくて、
決して客観が出てくるはずがないと思うんですよ。
そして意見が比較的まとまりが良い場合には、
09:03
全くそうですよね、そうですよねって話で終始して、
全然面白くないんですよ。
誰かが、だいたい語り口、語り目がいるんですよね、その中には。
オピニオンリーダーというのとはまたちょっと違うんですけど、
よくそういう中でも喋る人っていて、
みんながそれにあいづちを打つような形になってしまう。
これだったら、その語り目の人が一人で喋った方がいいと思うし、
逆にですね、意見があってない人の場合は、
今度は議論が噛み合わないじゃないですか。
あなたの言うこともわかるんですけどねっていうのは、
これはディスカッションになって客観性に行き着けるような、
こういうのを西洋人が好きらしいんですけど、
正反抗ってやつなんですが、
私はこうはならないなって感じをいつも抱くんですよ。
これは日本人がディスカッションが下手とか上手いって話ではなくてですね、
相対立するいくつかの意見を集めてみたところで、
やっぱりそこに客観はないと思うんですよね。
それはやっぱり間主観性だと思うんですよ。
間の主観ってやつですね。
だから最初に言ったいろんな不自由さを抱えて、
私たちは極端に言えば、
特にこれといった病気を持ってなくたっていろんな不自由さってありますからね。
例えばフリックの入浴がどうも苦手だとか、
これってもう一歩間違うと今の時代で言えばですね、
ノート術における手の不自由さ的なものになるじゃないですか。
自由じゃないわけですからね。
あるいはさっきも言った通り、
私の知ってる人にメガっていう人もいると、
メガってことになると、
やっぱり音声中心じゃないと困るわけですよね。
いろんな話があって、
万人に客観的で共通のいいノート術とかがあるとは思えなくて、
そうすると誰には、どんな仕事には何が合うって話になるんだけど、
私はそれも嘘っぽいと思うんですよ。
同じ作家でも全然違う方法を好みますからね。
情報発信だろうと情報整理だろうと、
一切やらないというクラズモさんみたいな作家もいるわけですよ。
そうなってくると、
触手に不向き不向きがあるというのもまずイリュージョンだなと思うんですよね。
でも、読みたいという気持ちはあるんですよ。
それはそれとして。
採用するかしないかとはまた別に。
そうなってくると、
この組み合わせは気づかなかったとか、
新しい発見があるといった話ではなくてですね、
そうじゃなくて、
この人の自慢話というものに、
面白さを感じるところが私はあると思うんですね。
だから、基本的には一人一冊か、
一人一人の話を集中的に聞くという形を取ったわけです。
第1弾のシリーズは、
情報整理大全であって、
あれは大全というタイトルになっているんだけれども、
網羅性が足りないとは思うんですよ。
だから本当は第30弾くらいまで出せばいいんでしょうけれども、
12:01
今のところ、
そこまで出して全く読まれなくなると、
それはそれでビジネス的に難しくなりますからね。
本当はやっぱりもうちょっと、
これは難しいんですよね。
KDPでもうちょっと収益を出したいと、
あらゆる人が思っていると思うんで、
著者に返ってくる還元文と、
労力の対比で考えると、
かなり難しいことになってしまう。
その人が情熱的にただ語るっていうのは、
その人にとっての満足としてあるのはいいんだけど、
それだけでは物足りないとなった場合、
金銭的なメリットがもう少しないと、
難しいところがあるだろうなと。
それはもうちょっとでいいと思うんですけどね。
もう一つが、
私が今インタビュー形式に切り替えているのは、
さらに狭めるためなんですね。
最初の情報管理ログさんには、
iPad miniの話に終始したわけですよ。
これもまた私が考えるに、
不自由さというものとの
いかに距離を取れるかと。
例えばフリックを今さらお年寄りにとっては、
あるいはお年寄りにとっては、
目も手も不自由という面もあるわけですよ。
フリックをこれから覚えるとなったらですね、
そこでペンという話になるわけですよね。
でも手で書いた文字は検索ヒットするのかと。
そういった問題があるじゃないですか。
そういう時にGoodNotes5という話になってきた時、
もうこれでいいと思うんですよね。
これ以外の話は一切いらないと思うんですよ、この場合は。
そしてこれが私の現在の究極点だというのを、
あとはトクトクと語ってもらえれば、
話としては面白いと思うんですよ。
仮にそれをうちの父なりが読んで面白いと思ったからといって、
iPad miniを買うかというと買わないんですよね。
買わないでしょうけれども、面白いとは思うんですよ。
現にうちの父は面白いといって読んでましたから、
これでいいと僕は思うんですよね。
これを作るのにむやみに手間をかける必要は、
むやみに手間をかけていると、
iPad mini 7とかが出てきちゃうんですよ。
そうするとまた話が変わるわけですから、
話が変わらないうちにこういうのはまとめてしまって、
読んだ人がこれに一定の刺激を受けつつ、
面白いと思いつつやってみようかなぐらいのところまで行ければ
ベストだろうと思うんですよね。
それで第2弾はタスクシュートですね。
岡野純さんだから。
これは漫画家と会社員のパラレルワークにおける
タスクシュートなんですよ。
これは事例は他にないんですね。
他に5人くらい集めてこよったって無理ってものじゃないですか。
だからといってパラレルワークなら
他の職種でもいいかというと私はそうは思わないし、
15:00
その人がタスクシュートをやっている可能性は
極めて低いと思うんです。
話が噛み合わなくなりますよね。
こういうのを避けるために自分が分かる範囲内で聞けることを
深掘りして聞きまくると。
そうしていくうちにその人の
気分とマッチした活動が
必ずそこにあるんですよ。
今日はこの話をしようと思って15分が今経過したわけですけどね。
だからなぜ自慢話を
聞かなければならないかというと
自慢話を継承するというところに
この番組でもお馴染みの
ここでいきなりそのワードが出てくると
脱落されそうなんですけれども甘えが成立するからなんですよ。
僕が言いたいのはそういうことなんですね。
私はですね、つまり甘えの世界というのは良いものであって
その世界に触れるということは
人に喜びを与えると思うんですね。
自慢話をするというのはどういうことかというと
私はそれがうまくできているかは知りませんが
母親役なんですよ。
カウンセラーや精神分析家はよく言います。
環境としての母親であり
息子の自慢話を聞くんですよ。
これが苦々しいと思う人には
この本は向かないわけですよね。
本手でもそういう面が多々あるわけですよ。
この話をとくとくと語る
例えば勝馬さんがとくとくと語る
バイクの自慢話が好きって人はいっぱいいるんですよ。
到底理解できないって人もいっぱいいるとは思いますよ。
でもそれは大した問題じゃないと思うんですよね。
息子の自慢話を母親が聞く
母親以外は聞かないかって言ったら
そんなことはないじゃないですか。
おばさんも聞いてくれますし、おばあちゃんも聞いてくれる。
なんならお父さんも聞いてくれるし、おじいちゃんも聞いてくれる。
こういうところには幸福感があるじゃないですか。
しかも時々実益が入るわけですよ。
ビジネス書ですからね。
あるいは実用書か。
そういうことを繰り返しやっていると
何かに触発されて
何かを始める可能性があるんですよ。
必ずしもノート術とは限らないと思います。
なぜかノート術に激しく触発されて
IKDP書きたくなってブログ書くとか
そういうことなんですよ。私が考える。
そういう言葉が起こればもう万々歳だと思いますね。
だからポストエヴァノートというのは
直的にこれはチャンスだと思ったから
そうしているのであって
別にポストエヴァノートはエヴァノートです。
そういう記事がありまして
私は非常に好きなんだけど
個人的に知り合いになってコンタクトを取って
本を出そうかと思っているぐらいなんですけれども
そういうことなんですよ。
18:00
ただあれだけだとさすがにもうちょっと必要だなとは思うんですけどね。
でもだから自慢話で大事なんですよ。
自慢話のネタというのはよく言うじゃないですか。
いつまででもこいつを話をしてそうだと。
あれも大事なんですよ。つまりそれだけネタがあると。
ただいつまででもする話というものは
本人が全部それを覚えておくのは困難なので
だから聞き手と記録が必要なんですよ。
これが私がやっているインタビューに
形式における本という形なんですね。
だから取り留めもなくなりやすいし
網羅的というのかな?
体系的にはならないはずなんですが
体系的には最初から狙っちゃいけないと思うんですよね。
どこからどんな話が飛び出すか分からないところが良さなので
最初からこういう話を聞いて
こういう構成にしようというのは
僕の脳内にあるものをぶつけてしまうと出てこなくなってしまうんですよね。
それを避けるためにも先日かなり
どういう風に
倒水して語ってもらうかということに
全力を注ぐというのが
非常に最新の注意を払っているつもりなんですよ。
今のところ
第一弾、第二弾と
気心も知れている人なので
その最新の注意が自然と払えるところに良さがあったんですけど
今後はそうはいかなくなるので
最新の注意だなとは思っているんですけど
今の話はつまり
何が言いたいかというと
脳とは移行対象だということなんですよ。
この辺でまた狂った話が始まったと思われると思うんですが
移行対象というのは
非常に
現代のビジネス書でも
ガジェットツールでも何でもいいんですけど
パラリンピックみたいに思いませんでしたか?
義手とか義足ってすごいですよね。
あれは本当に
人間という生物種の
一つの拠地だと思うんですよね。
あれほど実用的に
機能してしまえば
もはや移行対象というには無理がありますが
でも自分の一部にはなっているはずじゃないですか。
車椅子であれ
私たちだってそこまでそんな風に思っていないかもしれませんが
例えばメガネとかで
大変だという人はいると思いますよ。
なければ運転絶対できないとかね。
それはそれほどのものとは思われていないかもしれませんけど
それほどのものじゃないですか。
昔、仕事は楽しいかねの第3弾か何かで
第2弾かな、コンタクトレンズをした瞬間
感動して号泣した人って話を読んだことがあって
そうだよなって思ったんですよね。
途上国の話だと思いますけどね。
そうだと思うんですよ。視力が0.01みたいになってくれば。
21:01
これは
でも失明というのとは違いますから
度が強ければ見えるわけですよね。
これって結局
これはもう完全に補助ツールですけれども
移行対象でもあると思うんですよ。
移行対象って何かというとママごとセットなんですよ。
ママごとセットというのは何かというと
お母さんを呼び出す道具なんですよ。
なんでお母さんを呼び出さなきゃいけないかって言ったら
お母さんがそこにいないからなんですよ。
でもいることにしたいから。
先日も話しましたけれども
子宮の中にいるお母ちゃんは孤独なんですよ。
でも子宮の中にいるんだから孤独なはずはないですよね。
二人で一人なんですよ。
でも二人いるときに一人なんですよね。
これが母親不在の母親みたいな
独特の表現をミニコットという人が取るんだけど
これは非常に僕は大事だと思うんですよね。
これ完全に甘え切ってますよね。お腹の中にいてただそれだけで生きていけるわけだから。
完全に甘えてますよね。
甘えの世界というのは最高の世界だと思うんですよね。
人間が生きていく上では
絶対にこれを欠かせることができない世界で
外に出てきましたと。
お母さんがいるんだけどお母さんだという認識は一切できないので
やっぱり孤独なんですよ。
でも孤独だということは
そして孤独で十分満たされているということは
そこにお母さんがいるってことですよ。
いるのはお父さんかもしれないしおばあちゃんかもしれないし
そういうことではないんですね。
お母さんなんですよ。それらは全部。
しばらくはそうやってやっていくんだけど
やがてついにお母さんがいないところで
やっていく瞬間が必要になってくるんですよね。
初めてのお使いはまずいけど今の時代きっと。
でもやっぱりいつかはそういうことになるわけじゃないですか。
ずっとお母さんが横にいるわけではない。
お亡くなりになるかもしれない。
それにもかかわらずお母さんがいると
情緒的には信じられる状態が必要ですよね。
そして私たちは実は最終的には
この段階までなんだと思うんですよね。
いやいや私は感情的にお母さんが横にいなくても
大丈夫なほど精神的に完璧に自立していますような
私はむしろすごく危険な状態だと思うんですよ。
そういうことが平気で言えるんだけど
実は心の中にお母さんががっちりいますというのが
正常な人であって
つまり母親に向かって
口汚く罵って文句言ってばっかりいるんだけど
心の中にお母さんがバッチリいますって人が
いっぱいいるじゃないですか。
思春期の男の子とかほぼみんなそうですよね。
この状態が健全なんですよ。
ここに移行するまでの状態が移行対象です。
時々はお母さんの後ろを向いたら
24:00
非常にお母さんに上がりますよね。
ただいるだけなのにいないわけにはいかないという段階ですよ。
4歳児、5歳児、あの辺ですかね。
砂場でママモトしてるんですよ。
でもお母さんがいると。大体いるんですよ。
でも本当にいない時もあるわけですよ。時々。
私もこの番組でも言いましたが夕暮れになって
ママモトがある時には
砂場はまだ明るいと思ってるんですよ。
真っ暗になってるけれども明るいと思ってるんですよ。
これ本当にこういうことを言う子どもが何人かいる本を
小野木圭吾さんの本で読んだことがあって
すごいなと思うんですよね。
心の中の伝統が照らすみたいな表現をとるんですよね。
でもふと気が付くと誰もいない。あたり真っ暗。
というわけでさっきとはママモトの光景が
一変しますよね。
もうお母さんは本当にいなくなったわけですよ。
本当にいなくなった状態なんですね。
移行対象は機能しないんですよ。
移行対象というのはこの場合ママモトセットです。
自分の中で女の子がよくやりますよね。
お母さん役もやってるじゃないですか。
それはママモトセットがあってこその出来事なんですよ。
この移行対象がノートツールなんですよ。
私が思う。
ガジェットの何でもいいですよ。
ノブシリアンは移行対象なんですよ。
そんなに役には立たないかもしれないけど
絶大に役に立つわけです。
たまに本当に役に立てば十分なんだと思うんですよ。
これがエヴァーノートだったりするわけです。
だからエヴァーノートにのめり込める人と
全くのめり込めない人とに分かれるわけですよ。
移行対象になってるかどうかがその差を分けるわけですね。
例えば私なんかにするとタスクシュートは移行対象ですよ。
これがなければ本当に仕事が回らないかというと疑わしい。
でも他の巡査もおっしゃってましたね。
これがなければ私はもう何もできない気がするみたいな。
母親じゃないですか。
これがなければ何もできない気がすると
口で言った時にはそうは思ってないですよ。
母親だと思ってるわけじゃない。
本当に役に立っていてあらゆる場面で役に立ってくれているんだっていう風に
考えてるけれども
私はそうじゃないと思ってるんですよ。
それは本当なんだと思うんだけど
それより大事なことが別にあると思うんです。
ただそれをいちいち人の中では言わないし
そんなことを意識する必要も一切ないんですよ。
でもリクルートスーツとかってそういうものだと思うんですね。
あれ着てることによってより仕事ができるようになるなんてことは
ありえないと思うんですよ。
むしろ邪魔だっていうケースも多々あると思うんですね。
着てたら仕事が進む気がするとかが大事なんじゃないですか。
私はああいうものは全部一向対象だと思う。
ネクタイとかね。
それがあることによって環境というものによって
私が生かされているという実感を
生み出してくれるものなんですよ。
27:02
なくてもできるという人はいると思います。
かなり自立の程度が高くて
自立の程度が高い人っていうのは
精神分析的に言えば
環境としての母親に完全に抱え込まれている人なんですよ。
非常におかしいと思われるかもしれませんけど
そうなんですよ。
環境としての母親に抱え込まれているという表現を取ったとして
それほど自立している人は年配の人に多いので
多くの場合は実際のお母さんは既に亡くなられていると思います。
これは
おかしなことではないと思うんですよね。
お母さんというのはイメージの話じゃないですね。
母親の顔が思い浮かぶとか
私は別にタスクシュートを見ているから母親の顔なんて思い浮かばないし
思い浮かべたいとも思わないし
思い浮かんできてほしくはないと思いますし
でも意向対象として機能しているんだろうなとは思っています。
エヴァノートなんかもそうです。
これと共にあれば私は仕事をやってられると
時々本当に役に立つからなお素晴らしい。
そういうものだと思います。
これの自慢話をするというのは至って健全な心理状態であって
そしてこういうものがあれば
私は仕事がやっていけるというものが
いくらかあるというのは良いことだと思うんですよ。
ガッチガチに固めないとダメだというのは
何か
心理的な困難を抱えているように思うので
微妙だなと思うんだけどあるじゃないですか。
腕時計をはめるとか、いつもの手帳を持つとか
そういうことなんだと思うんですよね。
そういうものの一環として今は
ITツールが出てきて、しかも機能性というものの方が
はるかに前面に出てくるようになったわけです。
万年筆とかとは違ってですね
意向対象としての意味よりも実用度の高さの方が
前面に出てくるようになってきた。
だから意向対象としての意味は
なかなか認識しにくくなって、ちょうどあれですよ
何でもできちゃうお母さんみたいな感じですよ。
8カ国語は喋れます、料理をしても万能ですみたいな
ドラマとか漫画の中にしかいないような
お母さんがボンと現れたあの感じだと
私はやっぱりどこか
危険なものというか
何か人を不安にさせるものを感じるんだけれども
でも今私たちが扱っているiPad miniだと
Jotoだとタスクシュートクラウドだという
高機能のツールって全部そういう側面もあると思うんですよね。
だからここはよくよく考える価値がある
ところなんじゃないかなと
ただみんなの使っている雰囲気とか
インタビューで深掘りそれこそしていくうちに
やっぱり実感としてくるのは
悪い意味ではないんですよ。これは甘えるためのツールだと
意向対象なんだと
これはパッと取り出したときに出来上がる空間
そういう言い方をするんですね。それが意向空間なんだと
30:01
あるいは可能性空間と言ったりもするんですけど
そこに空間が現れるわけじゃないけれども
でもママもとしている子供というのは
何かそこに空間を意識しているじゃないですか
そこに存在はしないけれども存在するとかそういう言い方をするんですけど
そういうことなんだと思うんですよね。
私もタスクシュートパッと見ると
そういう空間が出来るような感じを抱くんですよ
そしてこれで大丈夫だ、いけるって感じを持つんですよね
そういうものが
持てればいいじゃないですか
それが実際どの程度役に立つかどうか
この話には客観性を持つはずないですよね
なんでママもとセットがいるんだ、いらないじゃないか
って言われたらそれまでですよ
なぜ女の子たちはママもとセットで遊ばなきゃいけないんだ
だってそれで料理できるわけでもなんでもありませんからね
でもこの言い方をするって
不健全な感じがするじゃないですか
私は同じような意味で
例えばママもとセットを使っている人が
大学生だと言うんだったらちょっと問題かなとは思います
というような意味で
意向対象がなければ仕事は一切回らないんです
っていうのはまずいと思います
仕事は全くできる気がしません
家にじっとしているしかありません
みたいなのは困ると思うんですけれども
システム手帳一本あればいつでも営業に出かけられます
これが健全ってことだと思うんですね
そしてその人にシステム手帳の話を聞くというのは
つまりみんながシステム手帳を使えば営業成績バッチリですよ
ということではないと思うんですよ
そうじゃなくて
自分の成長しているうちに
その人が発信するというものが出てくるんですよね
やっぱり
ママごとの自慢話ですよ
こう言うといかにも何かダメなことをやっているように
聞こえるかもしれないんですけど
私はこれが一番価値あることだと思うんですよね
それをみんなが聞くと
そのうちに自分の意向対象というものが
作り出すものとか見つけ出すものじゃないですか
自然と手に入ってきて
自然と始めるのが一番いい
ママごとセットを
すごくお金持ちの日があって
ママごとセットを社長のおじさんが
特注してくれました
なんかちょっと不健全な感じがしません
意向対象というのはそういうものであるのは
いいものになるように思うんだけど
そうはならないんですよね
オライナスの毛布ですから
どこから出てきたのか
いつの間にかなくなってしまうでしょう
いつまでも持っているのは問題ですよね
そういうのがいいと思うんですよね
33:01
いつの間にかエヴァノートは使わなくなった
知らないうちにオブシディアンを使うようになった
今じゃこれなければ終わらない
だけど他の人には適応しがたい話なんですよ
ただその話をコンコンと聞き込むうちに
多分
なんとなく自分に
そういうものが意識されて
だいたいそういう話はそもそも
ちゃんと聞けば面白いはずなんですよね
というつもりで本を作っているわけですけど
前書きには書きにくいところがありますよね
これが
網羅的ではない
そして必ずしも
エヴァノート語に何を使えばいいという話にはならない
ノート術の本が
今連発しているわけなんですね
これは私は聞き込むという人を
どんどん探していくのが
私の仕事だろうと今は思うので
話は重複し得るんですよ
オブシリアンが何発も出てくるということはあり得るはずだと思うんですね
そうはなかなかならないんですけどね
実際には
でも何かそういうところがあるはずなんです
そして修練しないというところが大事なんですね
よくよく思い出してほしいんですけど
別によくよく思い出さなくてもすぐ思い出せますが
この前に手帳ブームってあったじゃないですか
今もあるかもしれませんが
驚くほどいろんな種類のが出ますよね
一つに修練しそうな気配は全くないですよね
機能性だけの話をとったらおかしいじゃないですか
種類がむしろ減っていくほうが自然なのに
どんどん増えていく
つまりあれは意向対象だからなんだと私は思うんですよ
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